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短編小説「偽物の恋」

「ワガツマさん、じゃなくアガツマさん、ですよね?」
旬斗しゅんとが聞くと、吾妻あがつま美優みゆうは頷いた。
落ち着いた間接照明のダイニングバーで、2人はテーブルを挟んで向き合っていた。

「わとあ、で全然違うよね。50音順だと一番前と後ろだし」
すると美優は、よくぞ気づいてくれた、という笑顔で頷いた。
「本当にそうなの。もう大違いで」

「ワガツマ」ではなく「アガツマ」という名字はいつも出席番号が1番か2番で、いかに嫌気がさしたか。「ワガツマ」で最後尾だったならどんなによかったか。そんな美優のたわいのない苦労話を聞いて、2人はひととき盛り上がった。旬斗はほっとして、グラスビールを2,3口飲んだ。

旬斗が美優と会うのは、今日が初めてだ。美優とはマッチングアプリで、半月程前に知り合った。何度かメッセージのやり取りを重ね、そろそろお互いに会いたいという話になった。

旬斗は1年前に彼女と別れて以来、決まった相手はいない。マッチングアプリを利用して恋人探しを続けてきたが、この人という相手には出会えていなかった。
旬斗は前の彼女と別れた時に、頭の中で、今後の自分の設計図のようなものを描いた。仕事もこれまで以上に没頭したいし、恋愛に溺れるのではなく、結婚を現実的に考えられるような、同志のような彼女がほしい。自らが親きょうだいや友達や職場の同僚に対して恥ずかしくないように、誇れる人物でいるために、必要な設計図だった。

美優は派手さはないが、ごく自然な華やかさと明るさがある。話し方も穏やかで心地いい。理想のタイプに近いかもしれない。会ってみて改めて旬斗は思った。
しかし、そう思うほど気負ってしまうものだ。ここからどんな風に会話を発展させようか。元から冗舌なタイプではない。無難に、職場や住んでいる場所のことを話しながら、旬斗は思案する。こんな時、聞かれなくても自分のことを次々話してくるような女なら楽なのだが、そうではない思慮深いタイプの方が好きだ。しかし、そういうタイプに旬斗は緊張してしまうところがあった。

店に入ってから3,40分ほど経って、旬斗はトイレに立った。席は、簡易的な壁とカーテンに区切られた半個室だった。
カーテンから廊下に出ると、2つ隣の個室から見覚えのある女が出てきた。

「旬斗?」
旬斗は驚き、目を疑った。1年前に別れた元彼女のリナだった。
旬斗は狼狽し、おぉ、と曖昧に応じながらトイレへ足を進めた。

「デート?」
リナは旬斗の斜め後ろをついて来て、ぎりぎり聞こえるくらいの声で訊ねてきた。少し甘さのあるハスキーな声は、1年前と全く変わらない。
「マッチングアプリで知り合った人と飲んでる。今日が初めて」
旬斗は事実そのままを、小声で簡潔に告げた。
「本当?」リナは旬斗の横に並んで、こちらを見つめた。「私もなの。マッチングアプリでやり取りしてて、今日が初めて」
相変わらず大きな目だ。唇はこんな風につややかに塗るのが好きだったな、旬斗はリナの顔を見て頷きながら、瞬時にそんなことを思った。

「お互い、頑張ろ」
リナは笑顔をみせ、トイレに入っていった。
最初は、それだけだった。

しばらくして、旬斗は職場の同僚からの着信に気がついた。休暇を取っているが、何かあったのかもしれない。美優に「ちょっと仕事のことで」と告げて、半個室を出て電話をかけた。なぜか落ち着かず、うろうろと歩きながら。すぐに電話に出た同僚は、簡単な確認事項を2,3聞いてきただけだった。

「はい、それで大丈夫。はい。失礼しまーす」
通話を終えると、またリナが自分の個室から顔を出して、旬斗のいる方に歩み寄ってきた。旬斗はフリーズしたようになった。
「ねぇ」
リナは押し殺したような小声で呼びかけ、耳を貸して、というように口に手を添え、旬斗を促した。思わずリナに向かって体を傾けると、耳元でリナはささやいた。
「旬斗とホテルに行きたい、この後」

はっ?と思わず大きな声が出た。虚をつかれたような、間の抜けた声だ。リナは、しっ、と人差し指を口にあてた。唇はさっきよりいっそうつややかなオレンジ色をしている。

「すごく、したいの。でも初めて会った人のこと誘えないし。旬斗だってそうじゃない?」
旬斗はただ、唖然としてリナを見つめ返した。媚びも悪びれもせず、リナは平然としている。
「LINEする。嫌だったら無視して」
返事を聞かずに踵を返して、リナは個室に戻って行った。

啞然としながらも、あの人らしい、と旬斗は思った。
リナは、そういう女だった。欲求も願望も、いつも子どもじみたストレートさで伝えられた。それが旬斗を夢中にさせ、苛立たせもした。

1年前、別れを切り出したのは旬斗の方だ。この人を理解するには、自分は凡庸すぎる。恋愛に溺れるのは、もうたくさんだ。穏やかな人と付き合って、その先に結婚があるといい。そんな風に考えるようになっていた。既に、アラサーといえる年齢だった。

「仕事、大丈夫?」
席に戻った旬斗に、美優が心配そうな顔で訊ねた。うん大丈夫、全然大した話じゃなかったから、と説明していると、リナからLINEが来た。リナのアカウントは削除もブロックもせず、付き合っていた頃のまま登録されていた。
「ごめんメールだ」
旬斗はあたかも仕事の話のように美優に断って、スマホを見た。

「A駅のカフェCにいるね」
A駅は、2人でよく行ったホテルのある駅だ。駅前にあるチェーン系のカフェCで待っている、とリナは言う。重ねてメッセージが来た。
「23時くらいまで待ってる」
「来なかったらあきらめる」

逡巡したのは、一瞬だけだった。
「行くよ」
3文字だけのメッセージを送信し、旬斗はスマホを鞄にしまった。

「はい、おしまい。もう何が来ても出ない!」
心配そうにこちらを見ている美優にそう言って、旬斗はスマホをしまった鞄を軽くたたいて笑ってみせた。美優は、大丈夫なの? と言いながらも、安心したように顔をほころばせた。

さっきのリナのストレートな誘いとやたらに目立つ色の唇が、頭から離れなかった。それなのに旬斗は、さっきよりも格段に、目の前の美優に対してリラックスして向き合っていた。

あることを思い出していた。小学何年生の頃かの、誕生日のことだ。旬斗はずっとほしかったゲームをもらえることになっていた。今日はそわそわして何も手につかないだろう、と両親は心配をした。しかし全くそんなことはなかった。帰宅するとあのゲームが待っている。そのことで学校での授業中も、放課後いつもの仲間と遊んでいる時も、俄然旬斗は調子よく過ごした。いつもは気乗りのしない教科に張り切ったり、苦手な友人に、いつになく気軽に話しかけたり。

今も同じだった。リナがA駅で待っていることで、旬斗は格段に調子よくリラックスをして、美優と話すことができた。酔いも手伝ってはいたが、それだけではなく、最初の気負いや緊張感は消え失せていた。
自分の仕事を引き合いに美優に仕事の話を聞くと、美優は思案しながらゆっくりと、自分の仕事の話をしてくれた。時々相槌を打ってそれを聞きながら、会話が弾んでいることに旬斗は満足した。気分が乗って自分の職場や友人の話などを面白おかしく語ると、美優はそれを聞いて楽しそうに笑った。


カフェCは、ドアを開けると煙草の匂いがする。禁煙が当然の今、煙草の匂いのするこの店は、ホテルに向かう時の投げやりな気分によく合っていた。
店内に入ると、入口近くの席に座っていたリナが旬斗に気づいた。リナは「すぐ出るから。このまま行こう」というように目配せをし、手早く席を片付けた。リナは旬斗のコートの袖を掴んで、出口へ誘った。

道を歩きながら、あそこのコンビニなくなっちゃったね、とリナが言った。以前コンビニだったその場所は、建物の形はそのままに健康食品の店に変わっていた。ホテルに向かう道でリナはそんな風に何か目につく度に、ぽつりぽつりと何か言った。旬斗はその度に、あぁ、うん、と短く答えた。

ホテルで部屋に入り、旬斗が先にシャワーを浴びた。代わってバスルームに入る頃、リナは幾分無口になっていた。

バスルームから出てきたリナは、メイクをしたままだった。シャワーで少し崩れた髪に、しっかりメイクの残った顔と、あのオレンジ色の唇が浮いて見える。旬斗はリナを抱きすくめ、唇に吸いついた。

バスローブが少しはだけ、下着の胸元から乳房が見えた。バスローブを肩から脱がせ下着を外そうと手を回すと、ひんやりとした肩先と、滑らかな背中に触れた。
その感触も姿も1年前と全く変わらないことを、旬斗は悔しく思った。

旬斗が触れるごとに、リナは吐息のような声をもらした。行為の時あまり言葉を発しないところが、旬斗は好きだった。

やがて中に入っていくと、リナは少し苦しそうな表情に変わった。それが快感を表すことを、旬斗は知っていた。興奮する気持ちを抑えるように、旬斗はリナに口づけた。

旬斗の視覚や手のひらの感覚や声、五感の全てから、リナが入り込んでくる。まるで、懸命に描いた設計図のすき間をするりと抜けて、旬斗の体の中にすみつくように。

旬斗が性急に動くとリナは、小さい声で、気持ちいい、と言った。さっきよりさらに苦痛にゆがんだような表情をし、そこから達するまで、あまり時間はかからなかった。
この顔が、見たかったのかもしれない。そう自覚して、旬斗も間を置かずに達した。

「旬斗やっぱりいい」
傍らに横たわったリナはつぶやくように、でもたしかに聞こえるように言った。

旬斗は何も答えなかった。リナの言葉をあまり真に受けてはいけない、とある時期から、旬斗は肝に銘じていた。本心であれリップサービスであれ、いつでもリナは、思いついたことをそのまま言葉にするだけだ。深い意味などないし、明日には変わってしまうような頼りないものなのだ。

旬斗は、うつぶせに寝たリナの頭を1度だけなでた。旬斗もいつの間にか、眠ってしまった。

気づくと、2時間ほど経っていた。リナはいつの間にかシャワーを浴びに行っていた。

「私、帰るね」
まもなくバスルームから出てきたリナは、身支度を整えていた。
時刻はもうすぐ4時だが、電車はまだ走っていない。1人で帰らせていいのかと悩んだが、スマホに視線を落とし何かしきりに入力するリナを見て、旬斗は助けを申し出ることをやめた。アプリでタクシーを手配しているのかもしれないし、誰か、適当な場所まで迎えに来てくれる者がいるのかもしれない。

リナが羽織ったコートは、鮮やかな青色をしていた。こんなコートを着ていただろうか。旬斗はぼんやりその青色を見つめた。
「ねぇ」リナはすっかり帰る格好をして、ベッドに腰かけている旬斗の方を向いた。
「ちらっと見たんだけど。昨日の子、かわいかったね」
リナは穏やかに微笑んで言った。「それにいい子でしょ。そんな感じがした」

「あぁ。多分」
この場所でそんなことを言われても、旬斗は言葉が見つからなかった。「そっちは?」
リナの相手の姿は、見ていない。リナは横を向いて言った。
「まあまあ、ね。また会いたいとは思ってる」

じゃあね、と入口に行きかけてリナは立ち止まり、前を向いたまま言った。
「お互い、うまく行くといいね。私も旬斗も、もうすぐ30だもん」

妙に清々しい一言が宙に浮いて、旬斗はぼんやりドアが閉まるのを見つめていた。

部屋は朝まで取ってある。とても起き出す気にはなれず、旬斗はそのままベッドに沈み込んだ。

旬斗はぼうっとしたままスマホを手に取り、あてもなくショート動画を見た。甘い声の男性ミュージシャンが「君を守りたい やっと本物の恋を見つけたんだ」と歌っている。

恋に、本物も偽物にせものもあるんだろうか。

急流に飲み込まれたような、熱に浮かされたような数時間を、画面の彼は偽物だと言うだろう。でも旬斗にはわからなかった。リナと体を重ねた数時間と、美優と語り合ったその前の数時間と、どちらが本物でどちらが偽物なのか。


朝になりホテルを出ると、外は雲のない好天だった。空気は真冬らしく、きりっと澄んでいる。
ホテルを出た時の好天は、きつい。殊にこんな行為の後は。

旬斗はうつむいて足早に歩いた。ふとスマホが震える。
「昨日はすごく楽しかったよ。よかったらまた会いたいです」
美優からメッセージが来ている。

横断歩道の信号が赤になり、旬斗は立ち止まった。

もしまたリナと出会ってしまったら。
リナと自分は、どんな顔で、どんな言葉を交わすだろうか。

空を見上げると、強い日射しで、昨夜の出来事が白く色褪せていく。旬斗はくしゃくしゃに縮こまった設計図を、ようやく広げ直した。

「俺も楽しかった。ぜひまた会おう!近いうちに」
旬斗は美優へのメッセージを送信した。
信号が青に変わり、旬斗は軽い足取りで歩き始めた。


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