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〈3.11から12年〉君のために ありふれた明日だけを願う

私は宮城県在住で、12年前の震災を経験しました。
家の全半壊や身内友人の生命などの、甚大な被害はありませんでした。
宮城県の中ではおそらく被害が軽度ですんだであろう、私の体験談と、当時感じていたことを、思い出しながら書きます。

我が家は数日でライフラインは復旧しましたが、地域や使用しているインフラによっては、1ヶ月近くかかった人もいました(電力や灯油なら使えたが、都市ガスは復旧が遅く、水道も地域により違った)。その間、トイレやお風呂に不自由した人がたくさんいました。我が家は運がよかったです。お風呂に入れない知人何人かに「入りにおいで」など声をかけましたが、交通の不便のためか遠慮したのか、実現しませんでした。

2,3週間はとにかく食料不足でした。職場も再開できず休みだったので、めちゃくちゃになった家を片づけながら、毎日目星をつけてあちこちの店に行き、食料を手に入れるのが仕事でした。
あちこちのスーパーに行って長時間行列して入っても、主食も生鮮食品もなく、缶詰やせんべいなどのお菓子しか買えない(もしくはそれすらない)ということが続きました。

野菜や肉魚、豆腐卵など生鮮食品が、とにかく手に入らない。県内の供給元は皆甚大な被害を受けているし、物流も交通も完全に麻痺していたので、外からも入ってこない。どうしようもなかったのです。
あと、地方の生活には致命的なガソリン不足。これも、あそこのスタンドにあると聞いては数時間並ぶ(満タンでは入れられない)、という繰り返し。

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小田和正さんの「明日」という曲を、この時期ふと思い出して、ガソリン不足の車の中でよく聴いていました。2005年の曲なのに、まるで、震災のことを歌ってるの?と思うような歌詞で、聴くとけっこう泣けました。一人になる空間で、わざわざ泣くために聴いているようなところもありました。

被害の大きな地域に比べれば、家も生命もあって恵まれているのはわかっている。でも食料の心配もあったし、仕事も非正規で、解雇になるかもしれない不安がありました(年度末の微妙な時期で、まだ次年度の契約が済んでいなかった)。いろいろなことが、つらかったのだと思います。

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この時期のことで覚えているのが、食料調達に行った、とあるスーパー。
店の中は危険なので入れず、入口でほしいものを言って、店員さんに取ってきてもらう方式。皆あれこれと伝えるけど、ほとんどが店にはないのか、持ってこられない様子。
ついに店員さんは
「本当に生きるのに必要なものだけ、言ってください!」
と言い渡しました。

そう言われると・・と皆黙る中、ひとりの人が
「塩っ!」
と叫びました。
おぉ。それはたしかに生きるのに必要だわ。
思いつかなかった、うまいこと言ったな、というような、賞賛まじりのどよめきが起こり、笑う状況でもないのに、なんだかすごくおかしかったのを覚えています。
(その人がその後塩を入手できたかは、覚えていませんが)

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そんな風に泣いたり笑ったりしているうちに、少しずつ食料やガソリンも手に入るようになりました。3週間ほどで、食料にも不自由しなくなりました。
東北自動車道が全面復旧したのが、震災からわずか11日後の3月22日。食料などが手に入るようになったのは、その影響が大きかったと思います。関係者の方々の尽力には、今でもただただ感謝しています。

職場も無事再開し、年度末ギリギリに次年度の契約をしました。解雇にならず本当に安心しました。職場は混乱を極めており大変でしたが、同僚たちと会ってあれこれと状況を報告し合え、心強かったです。
そんな感じで、日常が戻り始めました。

自分たち以外のことも考えられるようになってきたので、被害の甚大な地域にボランティアで行くようになりました。たしかゴールデンウイーク頃から。

その地域のボランティアセンターの指示に従って、片付けの手伝いや泥かきなどをしました。関東など県外から来てくれた人もたくさんいて、ありがたいことだと思いました。来るだけできっと、大変だったことでしょう。こちらは同じ県内で、ガソリンさえあれば行くことは簡単なので。
(ただ小さい子どもがいる今だったら、そういったボランティアはできないだろうなと思います。連れて行ったら危険だし邪魔になるし、預ける所もないし)

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あの経験があるからもう怖いものはない、などとは全く思えない、12年後の今。とりあえずできることは、防災の備えを再チェックすることくらいです。
ラーメンやパックご飯など、普段でも食べられるものを多めに買い置きして、食べては補充…と、ローリングストックのような習慣がつきました(いざとなると、結局主食で食いつなぐしかない)。苦労したガソリンは、常に半分以上入れておくことを何年も習慣化していましたが、ガソリン高値でやめてしまいました(給油の回数が多いと、なんとなく損している気分になる)。
他は、水と非常トイレとガスボンベと・・・

でも、備えあっても憂いはある。

もし当たり前の笑顔消えて 哀しみだけが世界をつつんだら
たゞ祈り続けること そのほかに自分が
できること その時あるだろうか

小田 和正「明日」(2005)より

小田さん、私もそう思います・・・

震災の翌年、小田さんのコンサートに行きました。するとこの曲が、なんと最初に歌われました。おかげで1曲目から大号泣してしまった。

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震災から時間が経ち、あんなに大変だった日々のことも、普段は忘れていることが多いです。被害が少なかった者なりに当時の様子を書き残したくて、記事を書きました。あくまでいち体験談です。
もし私より大きい被害を受けた方が読んだら、だいぶ軽く感じたと思います。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

追記:
フォローしている 侑子様の記事で、取り上げていただきました。
読んで「それぞれの3.11を、もっと語ってもいいのかもしれない」と、改めて感じました。

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