船岡

銭湯で触れた「孫の手」ならぬ「おばあちゃんの手」から感じたこと

京都・西陣の人気スポット、船岡温泉
大正と昭和の趣を色濃く残した、京都を代表する銭湯だ。

先日初めて訪れた時の出来事。

ひとしきり湯を楽しんだ後、脱衣場で豪華な欄間や、レトロなマジョリカタイルを眺めながら、私は全身にワセリンを塗っていた。アトピーなのでこれは風呂上りルーティンである。

すると、同じ腰掛けに座っていた80代(推定)の上品なおばあちゃんが私に向かってこう言う。

「背中、ぬりましょか?」

「え!あ!はい、だ、だいじょ(うぶです)・・・。」
私が言い終わる前に、おばあちゃんは続ける。

「塗ってあげるわ。手が届かんでしょう。私もね、蕁麻疹が出た時に背中がぬれんと困ったことがあったわ。ほら、ぬったげましょ。」

突然の親切心に戸惑いながら、私は答える。
「あ、ありがとうございます。だ、大丈夫です。」

実際、私は体が柔らかく背中にも手が届くので、困ってはいない。
(薬がぬれることはメリットだが、手が届くゆえ、痒い時に掻いてしまうというデメリットもある)

おばあちゃんはまだ、続ける。
「ほんまに大丈夫?遠慮せんでええのに。」

すると、別のおばあちゃんも会話に参戦してくる。
「そや、最近はアレ、孫の手みたいになってて背中ぬるやつあるでしょう、あれ、ええんとちがう〜」

そして3人で、その「孫の手みたいな背中をぬるやつ」は3回使ったら折れただの、背中に湿布を貼るときも1枚はクシャクシャになってしまうだの、便利なアイテムを賢い人が早く開発してくれないと困るだの、話に花が咲く。

そして、おばあちゃんたちは「ほな、お先ぃ〜」と言って帰って行った。


「なんで断ったん?ぬってもらったら良かったやん。」

風呂上りの牛乳を飲みながら、夫にこう言われた。
確かに「孫の手」ならぬ「おばあちゃんの手」はとても嬉しかったのだが、果たして断って良かったのかとモヤッとしていた。


私が断った理由は、恐れ多いことだと思ったから。
私にとって「他人の背中にワセリンをぬること」は非常にハードルが高い。時間もいただく、手も汚れる、ましてや私はキレイな背中でないから申し訳ない。そして自分でぬることができる。

けれど、断ったことによっておばあちゃんに「余計な事したかしら。」と思わせてしまったんじゃないだろうか、せっかくいただいた親切心を大切に扱えていなかったんじゃないだろうか、と思っていたのだ。

そして、気がついた。
私にとっては「ハードルが高い行動」だったけれど、おばあちゃんにとっては「ハードルが低い行動」だったから声をかけてくれたのでは?と。


確かに、私が他人に対して親切にできる事は、ハードルが低い行動だけだ。落とし物を拾う、道を教える、集合写真のシャッターを押す。
そして「ハードルの低い行動」によって相手が喜んでくれたら、「私いいことしたじゃんポイント」がもらえてちょっと嬉しい。


つまり、おばあちゃんの親切を断ったことで「私いいことしたじゃんポイント」をおばあちゃんに還元することができなかったから、嬉しかったはずなのに、悪いことしたという感覚で私はモヤッとしていたのだろう。

そういえば、お義母さんや近所のおばちゃんに対しても、同じようなことがあったなぁなんて思い出す。

だから、他人からいただく親切心は、断る理由があったとしても、ちょっと甘えてみてもいいのかもしれない。
相手にとっては「ハードルの低い行動」だし、親切にしてもらって嬉しいし、「私いいことしたじゃんポイント」も相手に還元することができて、両者がハッピーになれる気がする。


あぁ、断らずに背中をぬってもらっていたら、どんな気持ちになっていたんだろう。おばあちゃんの手、温かかったんだろうなぁ・・・

ノスタルジックな雰囲気と、人の温かさを体感することができた船岡温泉にハマりそうだ。

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