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蛇を食べた祖父

祖父は南方へ戦争へ行った。

部隊は飢えに苦しみ、大の大人の男が2~30キロ台まで痩せるほどだったという。

今でいえば明らかに無理ゲーを強いられていたわけで、実際多くの人が生きて帰ることが叶わなかった。300人行って30人しか戻らなかった(数字は曖昧)という凄まじい戦場だったと聞く。

どう考えても少なすぎる食料や物資しか支給されず、後は現地調達せよ、と言われても鬱蒼としたジャングルには目ぼしいものはなかった。


ネズミや蛇を捕まえて食べていたと聞くから、その凄まじさは私の想像を遥かに超えている。祖父曰く、ネズミは小さく可食部が少ないので、長い分蛇の方がよかったとのことだった。


『ネズミより、蛇の方が良かった』なんて私は一生口にすることのない言葉だなと思った。


どうやって調べるのか知らないが、亡くなる数年前、NHKの取材がやってきた。その時の映像は今もアーカイブスに残っているので。私は祖父に会いたくなるとそれを検索する。


私が生まれた時点で戦後40年くらい経っていて、何となく戦争の話は聞いたことがあったが、息子である伯父は父親の口から戦争の話を聞いたことがないと言っていた。

伯父曰く、戦争に行ったということは人殺しに行ったんだから、いくら時代がそうだったとはいえ、話したくない人はいるだろうということだった。私からしたら歴史の教科書の1ページでしかない戦争も、実際その教科書の中にいた祖父は、過去のこと、だなんて捉えられなくても無理はなかった。

戦争の特集番組を見た夜うなされて目を覚ました、と言っていたのが忘れられない。私の持つ言葉や経験では到底知りえないほどの恐ろしさがあったんだと感じた。

全く話さなかったわけではなかったが、やはり進んで話すことはなかった祖父だったが、90を目前に、戦争の経験者がどんどん亡くなっている今、自分が話して残さないといけないと思って取材を受けることにしたと聞いた。

当時、戦後約65年くらいだったと思うけど、それくらい経たないとそう思えなかったかと考えると言葉もない。

最後まで頭がしゃんとしていたのは、家族にとっては幸運だったと思うが、楽しかった記憶だけでなく、あんな辛い戦争の記憶も忘れられなかったのは辛かったのではないかと思う。


取材映像の中で、最後の引き上げ船が○時までに出るから岸まで来れなかった人間は置いていくとのことで祖父は他の方と必死に向かった。

しかし、一緒にいた「タナカ」さんが『息が続かない、もう自分のことは放っておいてくれ』とへたり込んだ、その時の情けない、可哀そうな気持ちが今でも忘れられないと証言していた。

名前は知っていても、住所までは聞いていなかったしそんな余裕もなかった。その彼の最期を日本に帰って親族に伝えることも叶わなかった。

当時もう90近かった祖父は、その時のその無念な思いを70年来ずっと心に仕舞って生きてきたんだと初めて知った。

きっと、祖父の言葉はタナカさんのご遺族には届いていない。でも、その話を誰かに話せて、その思いをこの世に置いて祖父は亡くなったので、それはよかったんじゃないかな、と思う。


前述の通り、300人中30人ほど、そう1割程度しか戻れなかったほどの激戦地において帰還出来た祖父は強運の人だったと思う。

取材の中で、ネズミや蛇どころではないものを食べた話をしていた。ここには書かないけれど、私は結局最期まで本人に聞くことはできなかった。きっと、孫や子どもたちには話したくなかったと思う。それでよかったと思う。

もし祖父が生きて帰ってこなければ、結婚もせず母も生まれていないので、私は今ここにはいない。どんな辛い思いを抱えていたか想像もできないが、それでも必死に生きてくれたことにこれ以上の感謝はない。


さて、何で急にこんな話をしだしたかと言うと、あの逃げ出した蛇どうしてるかな~?世が世ならお前、食われてるぞ!と思ったからです。


蛇、早く見つかりますように。


おわり

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