ナイフを洗い忘れた

自分がたまに何のために走り続けているのかわからなくなる時がある。たまに全てをかなぐり捨ててこの世から失踪したくなるという願望が湧くときがある。かつての自分はそういった身近な先例をかっこいいものだと思い、いつでも逃げられると思っていた。しかしそれが胡散臭いものであるということに気付き、自分は成長したのだと感じた。

他人の欲望になされるがままに突き動かされる存在として生きること。ある友人が「断るの面倒だから何でもオッケーにしているけど」と言っていたのに妙な納得感を覚えたが、私はある一定以上のATフィールドを破壊されそうになると殻にこもりたくなるようだ。それはいつも一緒だ。というか、人なら割と皆そうなのではないかと思う。それらを得意の忘却と精神状態の根本から躁鬱となり操ることでなんとか人間社会に順応しようと回避しているが、このまま指数関数的に強くなれるのか、頭打ちがくるのか、はたまた「死」が訪れるのかはまだ自分にもわからない。

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私はそもそも他人への期待を抱かず、社会的に「善」とされる厚意をなるべく発揮していくことで暮らしている。そのような在り方を好むようになったのはこれまで押し付けられてきた他人からの「絶望」の大きさが大きすぎたためか、はたまた元から他人の「心」への関心を置き去りにして生まれてきたためか、正直よくわからない。しかし結局どんな人間であれ一旦その狭い環境に順応していれば「正常」で、不調をきたしたら「異常」になるのだ。法すら神が作成したものではなく、聖書だって所詮運の強い道徳書のようなものだ。いつだって綱渡り。急に道端で倒れ救急搬送されるまでは「正常」のふりを行うしかない。


今日、自販機のコーヒーを買いに行くときに、親に「早めにしにたい」といったことを思い出した。今考えると申し訳なかったかもしれないが、しかし本当にそう思うのだ。底抜けに躁だったころの日本の方が正直怖い。今見えている世界は、私が飛び込んだ環境を取り巻く人々によって構成されていて、それ以上にもそれ以下にも非ず。憂鬱を知り尽くすことが善いことでもないし、心を拡張し続けそれに慣れてしまうことは社会的に悪とされる。その中庸を上手くわたらねばならないのだ。


過酷な環境に身を置くことで自身が狡猾になれるかと言われればきっとなれないんだと思う。そういう性分でもう21年生きてきてしまった。急に何かがプツンと切れてもまずくるのは肝臓だろう。人に好かれたいとは思っていないが、人に嫌われないために、小さな嫌悪を蓄積しないために私はどこかずっと気を遣って生きているのかもしれない。別に生きようと思えば生きられる場所があるし、嫌になれば切ってしまえばいい。しかし自身の繊細を証明してしまわないようにもう少しだけ張り付いていようと現状は考えている。怨恨はその占める比重が大きいものへと蓄積する。優しさは自傷を選ぶが、人は簡単に死ねやしない。


窓を開けると光量も空気のにおいも嫌というほど夏だった。階段の鏡に映った鎖骨は少し歳をとってしまったように見えた。

人生最後の夏休みが来てしまった。

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