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地球を汚しているね

最近は文字起こし出来るほど思考が廻ることが少なかったので、noteを書きたくても書けずにいた。B型だからというと、日本人特有の血液占い信者の一人みたいでいやになってしまうが、まあ一応それを枕として、私は飽き性であるということを伝えたい。趣味が廻るのだ。ひたすら映画を観ている日もあればラジオをきいている日もあるし、YouTubeやTikTokの動画をひたすら流して一日を潰すこともある。意識が高いときは新書なんかも読み始める。

ここ最近はとりあえずインプット期間だったので道を歩いていても3分くらいで思考が停止していた。だがその3分で何となく考えたことを今回書き連ねてみようと思う。


「人はコンテンツとして生きると、大半の悩みは消えうるのか」

というテーマについて。

社会は確かに人間関係の場である。閉ざされた田舎に多い思考だと勝手に予測するが(或いは井戸端会議とか(?))、○○さんちの子供がどうだとか、○○の陰口を言ったらどうだとか、そういう個別具体的な固有名詞をつらつらと連ねて一喜一憂している人間とはあまり交わりたくないというのが私のポリシーだ。勿論、人間関係の場において具体名を出さなさすぎるのも可笑しな話なので、対人エピソードトークは月並みにはおこなっている。でも大体誰が何をしていてもいいと思っているし、そこに恨みや妬みだけは持ち込みたくないと考えている。(そうは言っていても人それぞれ基準は異なるので、私が以前冗談紛れにこぼした愚痴を本物の愚痴と捉えられてしまって面倒なこともあった。やはり本能レベルで合う/合わないを見極めることは時に必要なのかもしれない)

コンテンツ、コンテンツと濫用してしまいがちだが、この度改めてこれを自分なりに再定義してみる。コンテンツとは脱文脈化された中でもキャッチーな異彩を放っていて、多くの人にとって扱いやすいがゆえに巷に浸透しているものだ、と私は捉えている。まあ自己解釈をゴリ押しするのもなんなので現代人得意のコピペを下に貼っておく。こちらも参考にしてほしい。

コンテンツとは、基本的には「内容」「中身」を意味する英語由来の言葉であり、とりわけIT産業や娯楽産業において「情報の中身」「情報そのもの」を指し示す概念である。 分かりやすくいうと、表現内容や表現手法も含めて《情報そのものが商品的価値を持つ情報》のことである。(weblio辞書より引用)


例えばネットのおもちゃと呼ばれる↓↓↓

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こういう奴らって(当人の現在の生活は図りかねるが)、万人(※ネット民)ウケしている。ある程度、文脈を共有している人の中でおもしろの最適解を導き出し表現していく存在になれば、もっと人に好かれることが可能になるのではないかと考えている。(結局文脈は意識するんかい、ワレ)

もう少し長期的に考える。例えば今、東京卍リベンジャーズが流行っている。その前は呪術廻戦、その前は鬼滅の刃。そういう少年漫画みたいな人間になること、それが社会的に要求されていて、そういう人が好かれるのだとすれば、人生ってあんまり難しくないのかもしれない。

最適な文脈で最適化された人格を演じる、そしてそのことを当然のように受け止めて疑わない「私」。脱人格化した上で形成された最適なコミュニティ。

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といっても人間はジョハリの窓だから、癖はつきものなのだろう。

もっといろんな人間がいろんな面白いことして世界ぐちゃぐちゃにしてくれ。


みんながいろんな考えを持って地球を汚そうとしてていいぜ!

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