続・食事の言葉
名古屋の街中でも紅葉が楽しめるようになってきました。
皆さまいかがお過ごしでしょうか。
今週の担当は岩田です。
過去の記事で隂山さんが、隂山家のエピソードと浄土真宗の「食前の言葉」を通して、お味わいを聞かせてくれた回がありました。
“おぉ~食事の言葉から「二種深信」にまで及ぶのか。…確かになぁ”
と読ませていただいたものです。
世界中の宗教や習俗の中には様々な “食事の言葉・祈り” があります。
目の前の食事に感謝する。
食事が用意されるまでの道のり、どれほどの人々が関わってくださったのかと思いを馳せる。
尊いいのちへの畏敬の念。そのいのちをいただくことによってしか、繋ぐことが出来ない私のいのちのあり方を振り返る。
食といのちは直結するので、人類の根源的な思いを起源としているのでしょうね。
仏教には、「仏道修行に励むための心と体を整える食事」という考え方があります。
もっとハッキリと「食事も修行の一環」として、作法やルールが厳格に決められている宗派もあります。
各宗の「食」に関する言葉・行為・思想には、それぞれの仏道が反映されているようです。
私たちの仏道、浄土真宗では食事=修行とはしません。では、食事の言葉にどんな思想が込められているのか考えてみると、やはり隂山さんが教えてくれた「二種深信」「慚愧と歓喜」に行き着く気がします。
前置きが長くなりました。詳しいことは隂山さんのブログにお尋ねいただくとして、今回はもう一つの「食事の言葉」と、岩田家エピソードからのお味わいです。
それは、日渓法霖和上という江戸時代の浄土真宗僧侶が示してくださった食事の言葉、「対食偈」という偈文です。
(和上は「能化」と呼ばれた宗門の学問上のトップを務められたお方です)
長くなりますが、全文をご紹介します。
初めてこの偈文を見た時、私は意味が分りませんでした。
分らずとも、行信教校の食堂に掲げられている特大パネルのこの偈文がどうも気になっていた。あの感覚を、今回久々に思い出しました。
僧侶の生き方に特化される部分もありますが、僧侶に限定せずとも、「いのち」に対する仏教的な捉え方に触れることが出来る言葉だと思います。
現行の「食前・食後の言葉」に比べて長く、難しく、重々しい言葉ですが、
「なにをいただいているのか」「なにに感謝するのか」「私のいのちとは」「何を目標として生きるのか」がくっきりと浮き上がってくるような…。
食事に向かう時に留まらず、念仏者の生きる姿勢が凝縮されているような気がするのは私だけでしょうか。
行信教校の寮生は日々の朝夕の食前に、また、専精舎期間中は学生だけではなくお聴聞においでくださった方々も共に、この偈文をお唱えして食事に向かいます。
(専精舎=行信教校で年に一回行われる楽しい五泊六日の集中講義…と今はしておきます)
私は寮生ではありませんでしたが、寮のご飯に乱入させて貰った時や試験後の打ち上げの時、皆で拵えたご馳走と異常な量のお酒を前に、まずはこの偈文をお唱えして、いつ終わるか分らない宴会がスタートしていました。
そして早い段階で一旦「食後の言葉」を一同で申しておりました。
「提供された食事をしっかりと頂戴させていただきました」という感謝をして食べ終わりの区切りをつける。呑んでいても、そこは忘れないのであります。(その後また呑むんですけどね)
…えーっと、私たち、何してたんでしょう(笑)
ある日、こうした楽しかったネタを我が妹相手におしゃべりし、「対食偈」というフレーズだけを残して仕事に出掛けたところ、帰宅したら妹作の「対食偈」のプリントが仕上がっていました (笑)
「食卓から見えるところに貼る?」
「対句がリズミカルで、響きがいい」
「即興で作ったってネットに出てきたけど、この人、天才か!」(笑)
「なんとな~く意味が分からんでもないけど、深い意味までは分からん。でも、すっごい大きな世界観にぶち当たるわ」
「『あぁ~、味がどうのこうのと言っちゃってるわ、私』って反省させられるよね」
そんな感想が次々と出てきます。
妹は行信教校に辿り着く前の私と同じく、仏教の勉強をしたこともなければ、仏教の一般書もほとんど読みません。(読んでも数ページで寝落ちします)
形式的なことは多少知っているけれど、「阿弥陀さんのお慈悲を身に受けた生き方」とは遠いような…。
でも、私みたいな石頭とは違って、とってもニュートラルな感性の持ち主で、言葉への造詣も(私よりは)深い人です。
その彼女が仏教の一々を知らなくても、仏教の本質に触れることが出来る。
「対食偈」だけでなくお聖教の言葉には、こうした力強いはたらきがあるのだと、改めて感じさせられます。
ちなみにですが、裏メンバー…と自己紹介していましたが、私にとってはアドバイザーの吉尾さん。彼は「対食偈」について
「日常を仏道化する、すごい言葉よね」
と、これまたすごい言葉をくださいました。
これ以上、私が何も言う必要ない気がしますが、表メンバーはブログを書かねばなりません。もう少し続けます。
私は美味しいもの、好みにあうものを欲してしまいます。鮮度、食感、味付け、調理方法…色んなことにこだわります。
食事に文句は言わないけれど、蘊蓄を垂れることも…。
空腹で食事を前にすると、辛抱堪らずがっつきたくなりますし。
大好きな人達との食事の時間は気持ちが高揚します。
それら一連の「食のたのしみ」が当然のこととなっています。
手を合わせて「いただきます」「ごちそうさま」をするのは、とっても豊かな儀式だと感じているのに、良くも悪くも習慣化していて、他事を考えながらでも成立してしまうんですよね。
その時、私の生命を繋ぐためにスっと差し出しされた「いのち」に対して、真剣に向かい合うことは出来ているだろうか?
「対食偈」のプリントを前に自問自答します。
こうして立ち止まって、食と、いのちに向き合わせていただく。
当たり前のこととして疑問にも思わず振る舞う自分のあり方が、貪り(むさぼり)に突き動かされていると気付かされる。
それは、食事だけでなく、生き方の全てに及ぶ話です。
そして、自分の姿に気が付かされて賢くなっていくのかといえば、そうはなれない。そうはなれない私だからこそ、放ってはおけない阿弥陀さんがおられる。
全てまるっとお見通しの阿弥陀さんですから、
何度も何度も繰り返し聞かせて、その度に
「あぁ、そうでした、そうでしたね」
と知らせていただく仕組みを作ってくださったのかなぁ。
私にも、妹にも、全ての人に向けて。
そんなことを味わった今回のご縁でした。
さて、皆さまは「対食偈」からどんなことをお感じになりますか?
宗教的な言葉は、意味が分らなかったとしても、黙読ではなく音読することによってこの身に満ち、生きた言葉となってくれる。そう聞いたことがあります。
声に出して唱えたときに心と身体にどう響くのか。
宜しければ、一度声に出してお読みいただきましたら、嬉しく思います。
今回はこれにて。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
合掌