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いのちのゆくえ (後編)

こんばんは。今週の担当は岩田です。

桜の季節です。数日前、車で通りかかった京都・蹴上の交差点は、満開の桜を愛でながら歩く人でごった返していました。
毎年桜を見るために各地に出掛ける私ですが、なぜか今年は、桜よりも人々の穏やかな笑顔に心動かされていました。
平和な国で過ごしていることを、思わずにはいられません。


さて、前回「いのちのゆくえ(前編)」と題して、
・宗教の根底にあるもの
・人間の性分
・私なりに考える「現代の宗教観」と「人間の性分」の乖離
・父の言葉
と綴ってきました。

「いのち」と「浄土真宗の教え」についてご一緒にお味わいを…
とテーマを掲げたものの、「浄土真宗の教え」のフレーズが出てきたのは最後の最後でした。スミマセン。

今回はその続編です。

(前編はこちらです)


さて、浄土真宗の教えでは「いのち」をどう見ているのでしょうか?

浄土真宗の教えの内容は、聞いて育った方やお聴聞されている方にはすっと受け容れられるのですが、一般的にイメージされる仏教とは随分異なります。
他の誰でもない、仏教を知らないくせに先入観だけは持っていた私にとっては、浄土真宗は却って入り込みにくい世界でもありました。
頭を整理するために、順を追って見ていきたいと思います。

まず、宗派の違いはあっても仏教は仏様に成るための教えです。
仏様に成るためには、我が身を煩わせ心を悩ませる煩悩(前編で記した性分や本能とほぼ同じことを指します)を滅し尽くして、悟りの境地に至る必要があります。このため、煩悩を消し去る様々な修行を重ねるのが仏様になるための道でした。

しかし、現実にはその道を歩むことが出来ない人間がほとんどです。
また、自らを見つめる目が深ければ深いほど、修行を重ねれば重ねるほど、自分の煩悩の根深さを思い知ることになります。
ゴールに自分の足で辿り着ける者はほんの一握りです。
それでは、修行を完遂出来る一握りの者しか仏教の救いに遇う=仏様に成ることは出来ないのでしょうか?

いやいや、そもそも仏様とは、単に自分だけが悟りの境地にあって満足しているのではなく、苦しみに喘ぐ他者を自らと同じ悟りの境地に導くはたらきを持っているのです。

法然聖人や親鸞聖人が出遇われた阿弥陀様は、生きとし生ける者全てを漏らすことなく、平等に仏にしてみせると誓われ、その誓いのとおりのはたらきを実現された仏様でした。
苦者を自らと同じはたらきを持った仏に育て、その仏にまた苦者を救わせる。そんな智慧と慈悲そのものが阿弥陀様です。

不安を抱え、迷い、自己中心的な煩悩に振り回されて日々を送る私。
仏様の境地とは程遠い有り様です。そんな泥臭くて生々しい私を、丸抱えして仏にしてみせるというはたらきが、私が知ろうと知るまいと、私にかけられている。

肝心なことは、私がそれを知って、受け容れるか拒絶するかである。

さらには、浄土に往生して初めて阿弥陀様のお慈悲に触れるのではなく、この娑婆に居ながらにして阿弥陀様のはたらきに支えられながらの今現在の人生である。

こうした浄土真宗の教えを行信教校で繰り返し聞かされ、教えの広大さ、懐の深さに引き込まれていきました。

そして、忘れていた父の言葉…死に行きそうな中で心に起こったことを後に言葉にした
「束縛を離れた世界に行かせていただくと思えたから、死に不安はなかった」
というあの言葉が思い出されました。

「なるほど、父の言っていたことは、こういうことだったのか」
「教えを聞き受けてきた人だからこそ、出てきた言葉だったんだ」
幼い頃に聞いた言葉を受けとめるのに、随分時間がかかってしまいました。


時を同じくして、節談説教の研究会に潜り込みました。
※(節談説教とは、浄土真宗の布教法の一つです。教えを分かりやすく伝えるため、言葉に抑揚をつけて、エネルギッシュな語り口で法を伝えます。頭ではなく心に直接訴えかけられるような布教法です。浪曲や講談など話芸の元にもなりました。)

その研究会で範浄文雄師という、能登の節談説教の先生に関する話題が挙がりました。
範浄先生はお聴聞の方が押し寄せてお御堂の床が抜けた(抜けそうになった?)ことから「御堂壊し」の異名があったそうです。
すごい話ですね。

ここで披露された、範浄先生のお説教を長く聞かれていた方々の言葉。
これがまた、すごいのです。

「先生のお説教を聞いてきたから、私は死ぬことが怖くないんだぁ」
そう明るく爽やかに仰る方が、何人も居られたそうです。

「浄土真宗のご法義は、死をこんなにも潔く受け容れることができるように人を育てるのか」と単純に感動し、父の言葉と結びつけました。

ところが後に、研究会で聞いた言葉を父に話してみたところ…

「本当に死を前にして、そんなこと言ってられるかなぁ」
気が抜けるような一言が返ってきました。

……??? 

「え!? あの時の言葉と矛盾してないか?」
「もしや、自分は揺るぎないけれど、普通はそう簡単にいくかなって言いたいの?」
心の中でツッコみを入れ、なんか意地悪だな~と思いかけたのですが。

言葉の上っ面でなく、父の表情や、口調も合わせて考えてみると、
自分の内面を凝視して出てきた「自分事であり本音」の言葉なのだと思い至りました。

「束縛を離れた世界に行かせていただくと思えたから、死に不安はなかった」とは、死への不安を超えた言葉です。
一方で家族への愛着も語っていた。言葉にしなかった思いもあるでしょう。
潔い言葉を本心から述べながら、同時に死を前にしたらどうなるか分からない自分を見ているのです。

見方を変えれば、揺れ動く心を最期まで抱えながら、仏様に成らせていただくことへの信頼は揺らがない姿とも言えます。

お聴聞する者は、阿弥陀様の智慧と慈悲の深さを知らされることで、
「阿弥陀様と自分を引き比べてみれば、自分の中には確かなものなんて何もない」
そんな自覚が生まれます。
同時に、阿弥陀様のはたらきは確かなものだと知らされることで、
そうである以上は「私の成仏は間違いない」と安心している。

それが浄土真宗の教えを聞く者の心模様なのかと、節談をお聴聞された方々や父の言葉を通して感じさせられました。

とっても複雑だと思います。綺麗事じゃないんです。
教えを聞けば、煩悩が吹き飛んでスッキリ!
とはいかないのです。

この複雑な状況は誰のせいでもなく、この私が人間の性分・本能を断絶することができない存在だからなのですが…。


この複雑さが、最近、なんとも有り難く感じるのです。


教えを聞くことがなければ、私達は本能のまま生を貪り、死への不安におののくか、先送りにして。いざその時になったら、右往左往して時間切れを迎えるだけだったのかもしれません。
それが人間の性分ですから。

ですが、教えを聞き、確かに阿弥陀様の智慧と慈悲を受け容れたとき、性分は性分としてありながらも、自らのいのちに対して別の価値観が与えられます。

別の価値観とは、
「おまえのいのちは、死んで虚しく終わっていくいのちではなく、お浄土に生まれ仏となるいのちであるよ」
という目から鱗の阿弥陀様目線の価値観です。

それは、勉強して難解な経典が分かったから、修行して心が整ったから、阿弥陀様の智慧と慈悲が受け容れられるようになるのではありません。
教えを素直に我が身に聞き受けたお聴聞の者が、等しく与えられる価値観でした。

ある先生が聞かせてくださったお言葉があります。

「物事には文脈というものがあります。どの文脈で自分の人生を受けとめていくか、それが問題なんでしょう。自分の人生をどういう意味づけをして生きていくか。自分の生をどう意味づけ、死をどう受けとめていくか。それが問われている。意味の問題なのです」

浄土真宗の教えを聞く者は、自らが生まれてきた意味といのちのゆくえを、阿弥陀様が意味づけてくださった文脈に従い、人生を歩んでいきます。


私のいのちは、お浄土に生まれ仏様に成らせていただくいのちであった。


「いのちのゆくえ」を知らされて歩む道のりは、複雑でありながら、なんとも心強い道のりであります。


称名

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