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なのり

ようこそ。今週は佐々木が担当しています。


パソコンが壊れつつあって困っています。


使いたい時にこそ、こんなことになりますね。もしこのまま壊れたら、私はパソコンを処分しいずれそのパソコンは解体され捨てられることになるでしょう。


ものが与えられた機能を果たせなくなった時、そのものの意味はなくなります。そして捨て去られるべき存在となり、もし捨てられないならばその存在は邪魔にすらなります。


このような見方で、

自分や他人の命を見ていくのは間違いであるんだよと私は真宗法義に教えてもらったような気がします。


虚しく終わっていき、捨て去られるべき存在になるのではなく、智慧慈悲円満の、どんな命にも寄り添っていくことのできる、仏になるべき人生こそ、お前の歩む道だ、と。


真実の眼を持ち、物事を平等に見ていける存在になるのだと。


ここに死生観すら転換させられる点が、とても嬉しい、幸せなことだなとも感じます。


しかし、人間として生きている今、

動物だったかもしれない過去において、他人のために本当に生きていこうと思ったことは多分無かったんです。


いや、たまにある!とは思いますが、一時的な優しさです。一時的ならば、それは自分のためであった、ともいえます。一時的じゃない人も想像出来ましたが、この命が有限である限り一時的なのでしょう。厳しいですね。。


そんな、自分勝手な存在は、お浄土にも参りませんし仏様にもなれません。これまた厳しい。。。


阿弥陀仏という仏様は、救われそうな者を救いとるのではなく、どう考えても救われようのない者をどうすれば救えるか、仏と生まれさせられるかを、悩み続けた仏様です。


悟ったのに悩むのか?

悟ったゆえの悩みでしょう。



慈悲は、どうしようもないものに向けられます。


子供が7人いて、1人病気になれば、7人平等に皆可愛いが、苦しむ1人に愛情が全て注がれるように、私に向かった慈悲だった、と、親鸞聖人、示してくださいました。





親が子に 残せし遺書を 今見たり 親鸞様の 教行信証 (斉藤政二)



親鸞聖人が救われる道は、我々が救われる道、わたしが救われる道です。


ただの仏道ではない。


仏道を歩もうとしない者を仏にさせる道です。


その人生の主人公こそ、阿弥陀仏という仏様です。


仏になれない者を仏にする仏。


その仏様がどこか遠くに鎮座ましますのではなく、今、はたらき続けているのだと、お念仏がお示しです。


念仏とは、阿弥陀仏の名前をよぶことです。「南無阿弥陀仏」のお念仏は、ただの言葉でも、変な呪文でもありません。仏様の「なのり」です。


と、この、なのりについて、よく、界隈では「名告り」と漢字にします。「名乗り」ではなくて。


これは何でだろうなぁと思って、それについて書きたいなと思っていたらここまで来てしまいました。


一般的に使われている「名乗り」ではなく、なぜ、「名告り」か。


「乗」とは、特段悪い意味を持つようには思えませんし、仏教においては大切にされる言葉でもあります。(大きな乗り物で「大乗」・どんな者も救いの目当てだという「誓願一仏乗」等)


以下のようなことを考えました。


一般的な 名乗りではなくて、仏様の方の、なのりだから名告りなんだ。という言い方もありそうだな、

→違いを強調してのことか?



「乗」を調べると、意外に、なのるという意味にはなりづらそう。

→ということは、「なのり」に、当てられただけの字?


「告」は、「告げ知らせる」ですから、

→仏様がその存在を私に告げているということか。報恩講の「報」と合わせたら「報告」だし。


しかし漢字的には「下の者が上の者に告げる」という意味もある。

→私がよぶ声にもなっているのか。だから、阿弥陀仏!ではなく南無阿弥陀仏なのか、などなど。。


面白いですね。


西谷啓治氏の言葉です。



自分の名が呼ばれることは、向こうが名乗ることであり、向こうが名乗り出る事は、自分の名が呼ばれることであって、一つの事の両面だといえます。例えば名号も、仏の名乗りであるし、自分が呼びかけられ、はいと答えることでもある


ここでは名告りではなく、名乗りでした。上手いこといきません。笑


私が仏様の名前をよんでいるんです、よぶためには、名告ってくださらないと始まりません。


よんでいるんなら、そこには既に名告りがあって、そこに先手のはたらきを見ます。


慈悲が衆生に至り届いた姿です。


良い人生であるなぁと、よろこび勇んで、生きていきたいです。

それは、人生という自分の小さな物語が、さらに大きな物語の中で語られ意味づけされてこそ言えます。


後生の一大事は、慈悲が私に届くことによって解決します。


すべての人が私を否定しようとも、私を捨てては仏にならないと誓った言葉の仏様が、今ご一緒であります。


称名

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