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善いこと、悪いこと

日中の強い日差しと、夜の肌寒さ。気温差にやられてしまった週末でした。

皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
今週は岩田が担当です。

「善いことしたと思ってたのに先生やお母さんに怒られたんだ。悪いことだったのかな。どっち?」
そう呟いたのは小学生の男の子でした。

「善悪の判断を私に聞くとは、相手を間違えてるよ」と内心腰が引けつつ、彼の話を聞いていました。
聞けば聞くほど、善悪の見方って立場によって入れ替わるものだなぁと感じ入り、どっちだなんて答えが出ません。
目の前の彼をひいき目に見ている私も既に偏った人間であり、正しい判断がつかなくなっているのでありました。

この世の中、善悪の判断を共有するために、道徳が教えられルールや法律が定められます。それも危ういもので、抜け道をすり抜けられるとそこを塞ぐように新たなルールが作られる…のならまだいい方で、抜け道を最初から残しながらカタチだけ規制を作ったことにする人達もいるわけでして。
迷わず悪だと断定したいのですが、それさえも立場によって見方は変わるのでしょうか。


…ぼやいてもキリがないので話を戻しますと。
世間の善悪はその境界線がハッキリしている時の方が少ないように思います。善と悪が入れ替わることもあれば、何が善で何が悪なのか分からなくなることもあります。相対させて答えを出せば、常に判断基準は移ろいでしまいます。

社会では混乱を招かないよう、ルールや法律で基準を定めるわけですが、国や地域によって、宗教・時代・社会情勢その他諸々の事情によって、判断基準は変化します。
つまり価値観によって変化してしまう、揺らぎのあるものなのですね。

そうなってしまうのは詰めが甘いのではなくて、裏を返せば私のありさまが善悪両面を持ち合わせているから。もっといえば、悪から離れがたい存在であるからなんだろうなぁ、と考えています。

急に仏教の話に引き寄せた展開になりました。
そう、「世間の善悪」といいましたが「仏教の善悪」の基準もあります。
宗教によっても善悪の基準があると申し上げたので、そりゃ仏教の基準もあるでしょうよ、と思われるかもしれません。
でも、「世間の善悪」「仏教の善悪」の基準がかけ離れたところで別個に存在するというよりは、仏教の基準が世間の基準を包むようなあり方をしているイメージを持っています。
大きな違いは仏教の善悪の基準は移ろわないのです。
委ねることのできる安心がそこにあります。

だから世間の善悪の判断がよく分からなくなったとき、仏教の基準に照らし合わせて考えてみたり、仏教に立ち戻って考えてみようと思うのです。

「善いことをしたと思ったのは、どうしてそう思ったの?」
そう彼に聞いてしまいました。
というのも、仏教にまつわるエピソードが頭に浮かんだからです。


古い経典に「七仏通誡偈しちぶつつうかいげ」といわれる短い言葉が説かれています。有名な偈文なので聞いたことがある方もおられるかもしれません。
「七仏」というのはお釈迦様と、お釈迦様よりはるか昔にこの世にお出ましになったとされる六人の仏様のことです。その七仏が共通して説かれた(戒められた)お教えで、仏教の真髄が述べられています。

諸悪莫作しょあくまくさ 衆善奉行しゅぜんぶぎょう 自浄其意じじょうごい 是諸仏教ぜしょぶっきょう
(あらゆる悪を為さず 善を行い 自分の心を浄めること これが諸仏の教えである)

いかがですか。肩透かしにあった気分になったのは私だけでしょうか。
シンプルで、当たり前のこと過ぎると思ったのは昔の人も同じだったようです。

唐の時代、仏教の大意を問うた白居易に、禅僧がこの七仏通誡偈のご文で答えられました。
「そんなこと三歳の子供でも知っている」と呆れた白居易に、
「それでも八十歳の老人でもこれを実践することは難しい」と禅僧は返され、白居易は黙って頭を下げたという逸話が残されています。

ただ生きていくだけ、生存欲求を満たすためだけでも、悪を犯さずには生きていくことができない私。さらに様々な欲求が大小積み重なっています。「七仏通誡偈」を言葉の上で、頭では分かっていても完璧な実践は無理な話です。それでも開き直らずに、身近で些細なことから「悪を慎んで善を励み」ましょう。というのが「七仏通誡偈」の実践的な聞き方なのでしょう。

ところでこの「七仏通誡偈」、シンプルな偈文であっても訳や解釈は細かく分かれるそうです。その中で山口益先生という大谷大学の学長を務められた先生のご解釈に出遇い、強く印象に残りました。

山口先生は「自浄其意」の部分に注目され、
「悪を為さずに善を為す、その心をこそ制御すること。これが諸仏の教えである」
とご解釈されたそうです。

悪いことをする時は、自分中心の考えで行為に走ってしまっている。その点は分かりやすいですね。
しかし、善いことをしたつもりになっている時にも、相手のことを思ったつもりで独りよがりであったり、慢心したり、恩着せがましくなっていたり、やっぱり自分中心の考えから離れることは難しいのです。
そんな自分の心を振り返ること。そして後からでも、本当に良かったのか、相手にとってはどうであったのか、と考えさせられること。それもまた、ささやかな「悪を慎み善を励む」実践となる。そう教えていただいた気がしました。

さて、件の彼ですが、誘導にもならない質問をしっかりとキャッチし、素直に実践しておいででした。
ちょっと考えてから
「善いことしたと思ったけど、ほんとうにそうだったか分からないから、今度聞いてみる。○○君に」
ですって。
冒頭の呟きは既に実践を開始していたからこそ、こぼれた言葉だったのでしょうね。今書いていて気付きました。(気付くのが遅い)

「仏様の教えをそのまま聞く」、その姿勢を彼から教えてもらったのでありました。

そして、仏様と私達の善悪の関わりについて、浄土真宗の教えの有難さを改めて味あわせていただいたのですが、そのお話はまた別の機会に…。


なんまんだぶ

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