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ミチタル

皆さま、こんばんは。
今週は陰山です。
 
表白集(表白とは仏前において、法会の趣旨などを仏と参詣の方々に報告し、仏徳を讃嘆すること)を見ていると、「我ら今幸いに久遠深重の因縁によって、真実浄信の幸せに目覚め…」と書かれていました。
なぜ真実浄信ということが幸せなのでしょうか?
 
「幸せ」という語を辞書で見てみると、「よい巡り合わせ」「不満がなく、望ましい状態のこと」などと出てきます。
自分の頭で考えてみると、私の欲望が満たされることを幸せというように思います。
様々なことが思い通りにいき満足することが、私が感じる幸せということでしょう。
 
先日、息子と娘と3人で近所のプールに行きました。
そろそろ上がろうかと言うと、娘が「上がったらアイス買ってね。」と。
子どもからしたら、それもプールに来る楽しみの一つ。
約束通りアイスを食べ、帰宅中に、私が「ちょっとコンビニ寄らせて」というと、娘が「お菓子買って!」と。「いや、もうさっきアイス買って食べたやん」というと、ムスっとして不満げです。
家に帰ってもプリプリしているので、こちらからしたら、なんで満足できんのよ!と思ってしまいます。
 
しかし、自分を振り返ってみてもそうです。
食事や人間関係、自身の思い通りにしたいと思い、現状に満足せず、もっともっとと求めてしまいます。
 
以前、岩田さんがご紹介くださった「対食偈」を思い出されます。
「飢と渇とを療せばすなわち足る もし不足の想念を起こさば 化して鉄丸銅汁(地獄で飲まされる鉄の塊や銅の汁)とならん」
さっきまで満足していたのに、不足の念を起こし、コロコロと満足と不足をいったりきたり。
というよりも、不足の念を起こし、それを求めるあまり、幸せを求めて進んでいるようで、結局不幸せに突き進んでしまっているのが私なのでしょう。
 
真実浄信とは、阿弥陀仏のご本願をそのまま頂くこと、他力の信のことです。
そのご本願とは、「お前を必ず浄土に生まれさせ、仏にする、お念仏してその人生を生きてきてくれよ。」という阿弥陀様の願いです。
それをそのまま聞き受け、お念仏称えさせて頂くことを真実浄信と言います。
この私のいのちは、お浄土に往生して仏と成るいのちでありました。
仏から願われているいのちなのだと知らされた時、同時に、欲求を満たすことが幸せだと思っていた私の幸せの内容が、仏の願いを聞くことこそが本当の幸せであったと転換されるのです。
 
90歳になられる御門徒さまがおっしゃっておられました。
「そりゃしんどいことも嫌なことも、そりゃありましたよ。けど、生まれてきて、今まで生きてきて幸せです。」
辛いことや悲しいこと、様々なことに出会って、何の為に生きてきた人生なのか…と虚しい思いでこの人生を締めくくっていかねばならないのは辛いことです。
様々なこともあったが、この人生は有難い一生でございました。と満足し、自身のいのちに合掌して終えていくことが出来る。
そんな風に今生での命を終えていくのが幸せなんだろうなと思います。
 
阿弥陀仏のご本願に、お念仏に出遇うということは、そういう境地を確立してくださることのように思います。
「満足」とは「満ち足る」こと。
お念仏が私に満ち足り、合わぬ手を合わせ、動かぬ口を動かし、足りぬ足りぬとばかり思うこのいのちを満足させてくださるのだと思います。
 
称名

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