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仏様の目 私の目

皆さまいかがお過ごしでしょうか?今週は岩田が担当させていただきます。
先週半ばから急に涼しくなりました。でもまた暖かさが戻るとかなんとか。
行きつ戻りつしながら、秋は深まっていくのですね。

さて、今回の画像は2020年3月6日、京丹後市「夕日ヶ浦」での一枚です。
忍び寄るコロナの気配は感じつつ、まだ対岸の火事状態。まさかその数週間後に社会が一変するとは思いもせずに、行信教校の同期数人で「プチ卒業旅行」に出掛けたのでした。

お目当ての場所を巡り、さて、立ち寄り先でお薦めされた「夕日ヶ浦」の夕日を見て帰ろうか~、と日の入り時刻より早めに現地に到着。霞がかかったような空でしたから「夕日は綺麗に見られるだろうか?」と思った記憶があります。
雲間から覗く太陽は、傾きかけたとはいえまだ眩しいくらい。夕焼けショーが始まるまで、私たちを含めそこに集う人々は思い思いに過ごしていました。
しばらくして、雲がピンクがかって来ました。それはそれで美しくて「あら、いいカンジ」です。
さらに日が傾いて空も海も赤く染まり始めると、その場にいた人々の目は夕日が沈む方角に釘付けであります。

ボーっと立ち尽くしていた私の隣では、友人が当時最新のiPhone11proで感動的な夕焼けを何枚も何枚も撮影していました。

ふと目の前に、今見ている光景の画像が差し出されました。「おぉ~綺麗!」と画面に食いついたものの、オヤ?と二度見して、前方の光景と見比べます。

画像は私が見ているよりも綺麗というか、陰影や色彩が濃くて、ドラマチックな印象なのです。
(やっぱり最新のiPhoneはすごいな。でも、な~んか…。実際よりも綺麗に撮れすぎちゃって嫌なのよね)
瞬間的にそんな思いが浮かびました。

今度は燃える夕日をバックに集合写真を撮ってくれると言って、こちらにiPhone11proが向けられました。再び、オヤ?と引っかかります。
(そういえば、このiPhoneは三つ目さんだったわ!だったら、二つのレンズでモノを見ている私よりも、もっと夕焼けの美しさに迫ることが出来るのかもしれない…)
随分ぶっ飛んだ発想を持ったものです。

私は画像やカメラの技術に関して全く知識がないので、iPhone11proの設定やデジタル処理がどうなっているのかは置いといて…。この夕日の画像を見る度に思うことは以下のようなことです。

私は無自覚に、自分が捉えている光景が自然本来の姿であると思い込んでいた。自然だけでなく、私の目に映るモノ、物事の感じ方、全てにおいて私が捉える世界があたかもありのままの姿である、としか思うことが出来なかった。
仕方ないですね、見えている以上のものは見えない(変な日本語…)ですし、よく見えている人の脳内をホイっと出して貰って、私のものと比べることは出来ないわけですから。

でも単純に考えて、視覚だけでも私の能力には限界がある。
さらには、「視覚情報に意味づけをして物事を解釈する」という複雑な行為を繰り返す、その瞬間瞬間で、私に具わる煩悩は常に解釈を曇らせて、世界をありのままに捉えることが出来ません。
本来のありかたから外れ、自己流に歪めて捉えてしまうのです。
それは自分に都合がいいようで、実は自分自身の首を絞めていることもあるのです。

そうした発想を持つこともなく、「自分は物事を俯瞰して見て、客観的に捉えるタイプ」
な~んて勘違いして偉そうに生きてきたんだなぁ、私…。
でも、そんな自分の恥ずかしさや偏りに、仏教を通して気付かせて貰うことが出来てよかったな。

写真一枚から色々なことを考えさせられます。

こんなことを考えるとき、頭に浮かぶエピソードがあります。
行信教校で何度か聞かせていただいた、元校長先生の梯先生のおはなしです。

行信教校界隈には沢山の桜があります。その日は、まさに桜満開!という日だったのか、行信教校を訪れた方々が “今日の桜の見事さ” を褒め称えられたそうです。
その中で、梯先生は同じように桜を愛でながらも、「仏様がご覧になったらどうでしょう」と仰ったそうです。

私にとって満開の桜が美しさのピークであり、蕾みの時期には開花を心待ちにして、花びらが散り始めたら「今年の桜も、もう終わってしまうのか」と寂しくなり、青葉の頃には「初夏だな」と思う程度…毛虫のフンを見つけたものなら「うわっ」と足下に気を取られる。秋の照葉は綺麗だけれども落ち葉掃除が面倒で、冬の桜は寒々しさを感じる。
そんなふうに、桜そのものではなく自分勝手な評価基準で桜を見ているのです。
(「夕日ヶ浦」の夕日だって、そうでした)

満開の桜を愛で、散りゆく桜にも風情を見いだす日本人の感性は素晴らしいです。桜は間違いなく日本人にとって特別な「花」です。
いや、海外でも桜を植えお花見を楽しむ文化が根付いてきているそうなので、日本人だけの感性ではなくなってきているのでしょう。
桜の持つ不思議な魅力ですね。
しかし、桜がニュースになるのは花の時期がほとんどです。それは桜の変化に対しても、植物全般に対しても、人間の尺度で優劣の評価をつけているということです。

梯先生は、そうした人間の世界観もお持ちの上で、同時に仏様からご覧になった世界に常に思いを馳せられていたのではないでしょうか。

仏様の目は、私の目とは見える世界が違います。
同じ満開の桜をご覧になったとしても、私よりももっともっと桜本来の美しさを受けとめられるのでしょう。そして、蕾の桜も、青葉の桜も、虫のついた葉も、落ち葉も、冬枯れのような幹と枝だけの桜も、満開の桜と同じように光り輝いてご覧になることが出来るのでしょう。
そのことを「仏様がご覧になったらどうでしょう」という梯先生の一言から教えられます。

私は、自分中心で煩悩を通してしかこの世界を見ることが出来ません。仏様の目とは真逆です。ですから、仏様がご覧になるこの世界の真実のあり方には、到底触れることが出来ないはずです。でも、ほんの少しだけ垣間見せていただくことが出来たような、梯先生のお言葉です。
 
そして、桜だけではありませんでした。仏様が光り輝いていると見てくださる中に、私のいのちも含まれていました。
今、どんな状況にあろうとも、私が私に価値を感じられなかったとしても、生きとし生ける者、全てのいのちに輝きを見いだしてくださる。
そんな仏様に見守られ、偏りに気付かされ、矯(た)め直されている。

そのことをしみじみと味わいながら思い出す、あの日の夕焼けでありました。
 
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回はこれにて。
 

称名

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