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夏休み最終日

この週末、台風の被害を受けられた皆さまに、謹んでお見舞いを申し上げます。

多くの方が外出先で身動きが取れなくなったり、予定変更を余儀なくされるなど、翻弄された台風でありました。

こんばんは、今週は岩田が担当です。

この週末は伯父の一周忌法要が予定されていました。法要前々日から関東在住の伯母家族が宿泊し、当日は親族が20人ほど集まる段取りで、細々と準備を進めてきました。
が、この予測不能な台風サンサンのおかげで、法要の日程変更をするのか、決行するならば各地から集結してくる親族達は当日辿り着くことができるのか?と気を揉み、まだ遠くにある台風と睨めっこの一週間でした。(したって仕方がないのに…)

それに加えて、伊勢湾台風を経験した両親は台風の勢力をチェックして対策を検討。

対策を打っている最中、伯母家族が到着しました。従姉妹の子供、小学五年生のS子も一緒です。そのS子、夏休みの宿題が相当量残っているとのこと。それなのにドリルやテキストは一切持たずにやって来たのです。
その意気やヨシ!と無責任にも思っていましたが、真面目な大人の意見により、自由研究は名古屋にいる間に終わらせることになりました。
テーマも決めずにのらりくらりな彼女に、手を妬く大人達。
「法事の準備のお手伝いをしてレポートにまとめよう!」と思わず助け船を出してしまいました。

自由研究といえば、祖父か母か、別の伯父に手伝って貰った記憶があります。
妹は「あっこ(私のこと)にやって貰った」と振り返り、
伯母は「お父さんかお兄ちゃんにやって貰ったわねぇ」と懐かしむ。
…血筋ですね。
順送りです、手伝うしかありません。

その時はまだ、この提案によって私の根気が試されることになるとは、知る由もありません。

昨年の伯父のお葬儀が仏事初体験だったS子は、お内陣の掃除を手伝わされ経験し、仏華を立てる様子を見学、お供え物やお墓のお花の買い出しに土砂降りの中同行、当日のお茶やお食事の接待の説明を聞きました。

その様子をS子…ではなくその母親が撮影をし、メモしていきます。

お手伝い自体はイヤではないけれど、その後ろに宿題が控えていることを思い出すと萎えるS子に対し、大人達はやる気スイッチ探しに一苦労です。

「おじさん(S子の大叔父であり私の父である住職)に話を聞いてみたら」と追加提案され、自由研究は壮大なことになっていきました。

「法事の意義」を聞かれたと受け取った父の方が、やる気スイッチを押されてしまったようです。

法要当日、読経に続いて法話が始まりました。
「今日は○○ちゃんが夏休みの宿題で“法事にはどういう意味があるのか”というテーマを選びました。普段の法話とは違うけど大人もしっかり聞いて貰いたい」
父は子供に分かるように話すのが一番難しいことは百も承知のはずです。
自分なりに噛み砕いた言葉で、しかし小学五年生には到底理解出来ない法話が始まりました。

「法事というのは、亡くなったおじいちゃんのために勤める…じゃないんだ。亡くなった人に安らかにいて欲しいとお願いする人もいるけど、これも違うな。
亡くなった方に深い感謝と敬いを込めるのは尊いことだけど、そうじゃなくて、この法事の場を通して自然界の本当の法則を知り、自分は一人の人間としてどういう生き方をしていくことが大切か?ということをお釈迦さんの教えから学ぶ機会が法事の場なんだ」

様子は分かりませんがS子には難しいでしょうか、完全に下を向いてしまいました。
大人は聞き入っていますね。

法話は一段とややこしくなり、お釈迦様の教えをまとめた初期の経典『スッタニパータ』の最終章「彼岸に至る道」の言葉から、彼岸と穢土の説明へと進みます。

「穢土というのは人間のそれぞれの勝手な思惑でドロドロに汚れている世界ということ。現実に昔も今も、日本でも世界でも、凄まじい事が起きているだろう。自分自身が思うままに、自分が正しいと信じて、幸せになるための行動がこの始末だ。
それで自分だけでも幸せになれるのかというとそうではなく、ひとときも心が安まらない苦しみを招いている。そうやって自分勝手なことを言っては葛藤とか苦悩、恐怖を生み出して七転八倒しながら生きていくのが人間なんだ。
一番問題なのはそんな生き方に、自分自身でおかしいと思えないことだ。
それに対して皆が持たない問題意識をもったのがお釈迦さんなんだな。」

そして、お釈迦様が明らかにされた、生老病死の苦悩、無明、執着心といった私達の苦悩の根本原因を辿っていきます。

お釈迦様は単に人間の苦悩の状況が分かっただけのお方ではありません。
人間の苦悩から脱出する法を見いだし、生涯説き続けてくださいました。
法を見いだされた、気付かれたということは、お釈迦様が問題意識を持つ前から法は存在していたということです。
ということは、気付ける人・気付けない人はあっても、どんな人の上にも法はあって、はたらいてくださっているということです。
私が気付こうと気付くまいとも、です。
その法とは、親鸞聖人が出遇われた本願力です。

「お釈迦さんと同じ悟りの境地を目指して修行して生きることはできないけれど、それだけが仏道ではなくなるな。お釈迦さんを目覚めさせた法、本願力を聞いて生きていくことが、我々の仏道になるな」

父も、父の法話を要約している私も相当端折ってしまいますが、父が身に受け辿り着いた仏道を聞かせて貰った気がしました。
S子の、そして伯父のお陰です。

その場に居合わせ皆が法に、本願力に包まれていることを思い、伯父の遺影に目が向きます。

伯父は本願力のはたらきによって、お悟りの境地へと参りました。仏様とさせていただいたのです。
その伯父がS子に、私達に、お念仏申す機会を与えてくださった法事の時間でした。
伯父は少しホッとしてくれているでしょうか。

さて、娑婆世界の現実はというと…
名古屋東京間の新幹線の運行は再開されましたが、S子は9/1の午後10現在もわが家で自由研究作成に格闘しております。

「おじいちゃん助けてくれない(泣)」
「いや、宿題助けるのが仏さんのお仕事じゃないし。…おじさんの法話ちゃんと聞いてた?笑」
「はい、法事の準備のまとめは終わり。次はおじちゃんのお話を思い出して書いていくよ」

法事と自由研究をご縁として、本願力を何度も味あわせていただく夜です。
S子と私、それぞれの締切り時間は過ぎていきます…。


南無阿弥陀仏


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