死なないといけない
少しずつ暖かくなって、春の陽気を垣間見る時期になりましたね。今週は佐々木です。
一水四見
という言葉が存在します。
たくさんではないですが、仏典にも登場する言葉です。
認識の仕方によって、認識の対象は様々に存在する、という意味です。
一つの水でも、見方によって四通り以上あるんだよという意味です。
同じ水を見ても、
天人には宝石の池に。
人間には飲み水に。
餓鬼には血に。
魚には住処に見えるようなものだ、という意味です。
人間世界であれば想像が付きますね。
飲み水以外にも見える時もあります。
貴重なものに見える時も、当たり前のものに見える時もあります。
我々はそうやって対象を判断しながら自らの世界を作り上げています。
ですから、何を人生の中心に置くか、で、人生は変わります。
何を中心に考えるかで、人付き合いも変わります。
何を中心に考えるかで、人生にいろどりが、生まれるんでしょう。
お悟りを仰ぐ人生が、温かいですよと、先輩方が伝えてくださいました。
この人生の根源的な問い、その命の意味をどこにみるか。
死んで終わりと思うなよ、浄土でお悟りの仏になる人生を生きてくれよと、阿弥陀様が願っています。
仏様同士で、またあの人と会える。
今離れたくない人とも、必ず離れる辛さが待っています。
その瞬間でさえ、意味あるものと阿弥陀様が仰います、その言葉に随う人生を歩む者を念仏者と呼びます。
浄土真宗でもよく拝読される『阿弥陀経』というお経には、
仏様は水に八種の功徳を見ると説かれます。
対象物に敵対心を持つことなく、受け入れる描写とも言えるでしょうか。
仏様になれば、どんな存在も受け入れる、どんな存在にも寄り添う存在となります。我々にわかる具体相でいえば、南無阿弥陀仏のお念仏です。
仏様は水に、八功徳を見る、ということについて、勝手に想像したことを述べます。
一水四見と言ったように、人間に想像できるのは、せいぜい四つ、他の生き物がどう水を見ているかは何となく想像するしかありません。
しかし、仏様はその倍、人間には計り知れないほどの真実の眼で、水を見る。
だからこそ、八なんだよ、と、お経が説かれたりしたのかなと想像を膨らませると、少しお経が楽しくなります。
何を中心に人生を意味付けしていくかで、全くその景色は異なってきます。
本願力が御一緒です。
南無阿弥陀仏
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