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専精

今週は佐々木が書いています。

ようこそのお出遭いです。


ここのメンバーの共通の出身校は、行信教校という、世にも稀なお念仏の学校です。


この学校の特徴は、知識を詰め込む場、ではなく、
自らの生き方と向き合いながら、お悟りの大慈悲心を学ぶ点にあります。

 

私は自分の命について、ほぼ何も知らずに生きています。

それに加え、自らの思いに振り回され、喜怒哀楽を繰り返し、人間関係に振り回されながら、いつ終わるか分からない命を生き続けています。

その命を迷いと知らせ、迷いを超える道を示したのが仏教です。


迷いを必ず超えていくには、阿弥陀様の本願にまかせるほかないと、迷いの現実を悲しみながら、当来のお悟りを喜ぶのが浄土真宗です。
迷い、悲しみを完全に捨て去るのだと説かない点が、なんとも生々しく、また自分も目当てなのだと聞ける嬉しい点でもあります。


何が起こってもおかしくないこの世界の中で、何が起ころうとも、変わらず私を願い支えるはたらきを聞くのが、行信教校です。


その学校の、一年に一度の中心的な行事が、専精舎(せんしょうしゃ)と呼ばれる行事です。

毎年、5月22日から五日間朝から夜まで御聴聞をし、先輩や後輩が集う期間です。


学校設立に関わった、専精院釈鮮妙和上の名前にちなむ会でありますが、「専精」について考えます。


もっぱら精進する。大切に思いながらその道を歩む。という程の意味でしょうか。


専精舎とは、自分の歩む道を思い返し大切にし、さらなる一歩を心がける集い、と受け取りました。


自らの生き方を見つめなおし、少しでも阿弥陀様が願っている生き方を実現していく。
それを毎年期間を決めて思い返す。その道を歩む仲間と出遭いなおす。


大慈悲の姿とは、最も幸せな姿です。

他者の喜びを自分の喜びにし、他者の苦しみをわが苦しみにし、その者の幸せを願う。そこに自分と他人という分け隔ても超えていく姿です。


そのお慈悲を、わが身の上で味わえるのが、南無阿弥陀仏の六字です。
なのりとして私にご一緒です。


その大慈悲の心を聞き、自らも必ず実現していくことを喜ぶのが、「仏の大慈悲心を学ぶ」ことであります。


専精の

「専」はもっぱら一心に。

「精」は、精米の精です。削れば削るほど不純物が取り除かれ、青光りするそうです。


浄土に生まれるべき命であるのだという誓願を聞き、その道こそ私の歩んでいく真実の道でありました。私の生きる意味でありますと、

確認し続けることが、専精なのでしょう。


自分の中に命の解決策は持ち合わせていません。

都合に振り回されながらしか生きていけません。


そんな私が、それを迷いと知らされ、目指すべきは大慈悲の心だと、思い返し、精進し、嗜むのが、専精という言葉には込められているのではないでしょうか。


独り悲しく寂しい命ですが、そのお前が目当てなんだと、聞いていけるところが嬉しいところです。


称名

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