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「ブッダのお弟子さん」展にて

皆様 いかがお過ごしですか?
「お坊さんの井戸端会議」今週は岩田が担当させていただきます。

先日、京都にある龍谷ミュージアムの春期特別展「ブッダのお弟子さん」にお邪魔してきました。今回はその展示からのお味わいです。

この展示は、2020年春期特別展として開催予定でしたが、コロナ禍で中止となりました。
そういえば、2年前の今頃は世界中で多くの催しが中止となりましたね。
当時、展示を見られなかったことは残念でしたが、関係者の方々のご無念・悔しさは計り知ることが出来ません。
今回は2年前の内容とは一部変更ありとのことですが、再度調整され展示会が実現されたと聞き、その有り難さに嬉しくなりました。
様々なご苦労を乗り越えての開催は、関係者・出品者の方々の思い入れの深さを感じさせられます。


本願寺御影堂門

龍谷ミュージアムは、浄土真宗本願寺派の本山である本願寺(通称お西さん)の堀川通を挟んでお向かいに位置します。
当日はご本山門前のツツジが満開。撮影されている方もおいででした。


御影堂門から見た龍谷ミュージアム


今回の展示、正式には「ブッダのお弟子さん-教えをつなぐ物語-」と題されています。

フムフム、お釈迦さまが涅槃に入られた後、お弟子さん方が法を伝えてくださったからね。

 -展示を見る前は、その程度の考えしか至りませんでした。

しかし、展示室で解説や展示物を見て回るうちに、疑問が湧いてきました。
例えば、こんなこと。

・お経典にも名前が挙がり、親しんでいる気になっていたお釈迦さまのお弟子方。その中で十大弟子と十六羅漢は別グループなのかと思っていたら、羅睺羅(らごら)尊者は両グループに入っているのか…。
そういえば、十大弟子と十六羅漢の由来や定義など考えたこともなかったなぁ。
※羅睺羅尊者=ラーフラ、お釈迦様のご子息。

・仏伝にはお釈迦さまだけでなく、お弟子方のご様子も詳しく説かれています。しかも、お釈迦さまにこっぴどく怒られたり、感情的になったり、おおよそ悟りからかけ離れたエピソードも描かれています。
「そこが人間くさくてイイよね」くらいにしか思っていなかったのですが、お釈迦さまの引き立て役ということではなく、そこには教えを伝えるための意図があるはず…具体的にはどんな意図なのだろうか?

・お釈迦様がメインではなく、お弟子方単独の彫像や絵画が多く作成されるようになったのはいつどの地域で?どんな流れで?そしてどういう意図で?

・十大弟子はそうでもないのに、羅漢さんのお姿がやたらおどろおどろしかったり、ちょっとコミカルに描かれてあったりするのはなぜ?
(作者の作風?…じゃないか)

などなど。
単なる仏教美術の鑑賞ではなく、この展示品が表わそうとしている事柄、背景にあるモノは何なのか?そう考え出すと、頭の中が忙しくなります。

解説パネルを読んで「へぇ、なるほど」と疑問が解決出来ることもあれば、
解説文の解説が欲しくなったり、
フっと気が遠くなったりすることもありました。
(お昼をいただいた直後の鑑賞は避けるべきでした 笑)


鑑賞中に全ての疑問は解決しきれませんでしたが、疑問や関心を持たされるのは未知のモノに触れた時の醍醐味です。
図録を手に入れましたので、ポツポツと読み深めていきたいと思います。

個々の疑問が気になった方、新たな疑問を持たれた方は、私の拙い知識では解説しきれませんので、検索いただくか、龍谷ミュージアムにお出かけくださいませ (笑)

しかし今回、知識的な疑問とは別に、大事なお味わいをさせていただきました。
今、仏教を聞かせていただいている有難さを改めて感じたのです。

それは、展示室最初のパネルの言葉からでした。

『釈尊の説法を聞いて、帰依した者の立場はさまざまで、その多様性も仏教のひとつの特徴といえます。』

特別展「ブッダのお弟子さん-教えをつなぐ物語-」別冊 
龍谷大学 龍谷ミュージアム

図録の解説の言葉をお借りして、少し説明を加えますと、

お釈迦さまのお弟子には出家して修行生活を実践した僧(比丘・比丘尼)や、在家のまま仏教に帰依した在家信者がいました。
仏教は当時としては新興宗教でしたので、こうした仏弟子の中には異教徒からの帰依者はもちろん、異教徒の聖職者も教えの内容に惹かれて仏教僧に転向したと言われています。また、仏伝には梵天や帝釈天といったバラモン教の神々が、仏教を守護する物語も描かれています。

そうでした。
仏教は、生まれ・民族部族・貧富・賢愚・老若男女などの差別なく全ての人を受け入れる懐の深い教えです。生きとし生ける全ての者の安楽を願う慈悲の心が貫かれています。

また、お釈迦様のような宗教的な天才しか悟ることができない、法を伝えることができない、といった教えではありません。
誰もが悟り、法を伝えることが出来る教えです。
お弟子方は、教えに従い、教えのままに生きることで、お釈迦様のように煩悩を離れた本当に安らかな境地に辿り着くことが出来ました。
そしてお釈迦様は、悟りを得たそのお弟子方に、教えを伝えることを託されました。

そんな深淵で慈悲に満ちた教えを、お釈迦様がお説きくださり、多くのお弟子方がリレーしてくださった結果、途方もない時間と空間を超えて今私は聞かせて貰っているのでした。

一方、この地球上では民族・宗教間の争いが絶えません。
自己拡大欲・被害妄想・利益独占などといった自己中心的な考えから、敵と見なす民族を「存在する価値がない」と断じ、民族まるごと消滅させることさえ正当化してしまいます。
信じがたい残忍な行為が、ずっと昔から、そして今この時間も行われています。

私自身「恐ろしい人達だ、なんでそんなことが出来るのか」と他人事で見てしまいますが、そうではありません。
今渦中にあるそれぞれの立場の人間にも、機に応じてあやしい動きをする人間にも、傍観者にも、私はなり得るのです。
彼らの自己中心性・残忍性を含む人間の愚かさは、私とかけ離れた所にあるのではなく、私の内にもある。「縁に触れたら何をしでかすか分らない私」が存在しているのです。
教えを聞く過程で、そのことに気付かされます。

そうした私の内実を教えられ、私の煩悩をたしなめられ続けるのが、仏教徒の生き方の一側面でもあると思います。

私が聞かせていただいている教えは、仏様の智慧と慈悲とは比べようがないほどに虚しく悲しい存在である者達を抱きとり、仏へと育てる教えです。

「ブッダのお弟子さん」達の生きた道、真摯で厳しいお顔や、ユーモラスでよろこびに満ちた表情から私達は何を受け取るのか。
そして仏弟子達への信仰を抱いた後の仏教徒が、後世に伝えたかったことは何であるのか。

我欲に目を奪われ生きる虚しさと、法を仰いで生きるよろこびを、改めて味あわせていただいた今回のご縁でした。

称名


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