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真夏に思う

境内の銀杏の木で、ツクツクボウシが鳴き始めました。
裏の田んぼは稲が青々と揺らぎ、ラジオからは甲子園の実況が聞こえます。
昨夜は、隣村の小さな花火が楽しませてくれました(写真)。
数日後には台風が直撃しそうな滋賀から、那須野です。
皆さんいかがお過ごしでしょうか?

愛媛の実家には、姉妹たちが家族を連れて帰省しているようで、羨ましい限りです。
結婚して15年、お盆とお正月に実家で過ごしたことはありません。
友達にも会えないのです。。
しかしそんな感傷に浸ってる暇はないのです、何故ならお坊さん、今時分は超絶忙しいからです。

大体一週間ほどでしょうか。
早い日は朝5時から墓地でのお参りが始まります。
早朝4時道路は多くが点滅信号で、止まるべきか進むべきか、一々オロオロしてしまいます。
そこから各御門徒さんのお宅へのお参りが始まる訳です。

私がお世話になっている本願寺の教堂は、職員各々がご自坊でのお参りがあるため、お盆参りは少し早めに昨日無事終わりました。
私も明日の盂蘭盆法要を以って、今夏もお役目果たしてやれやれと一息ですが、まだまだお盆参りに忙しくしている仲間がほとんどではないかと思います。
ご苦労様でございますm(_ _)m


さて、このお盆のお参りなのですが、忙しさも去ることながら、楽しい時間でもあります。
1日に何軒も色んなお家の色んなお仏壇、ご本尊を拝見していると、その家々の空気が感じられます。
普段の月参りではお出合いすることのない、お子さんやお孫さんとお話しできるご縁でもあります。

お仏壇は、新しいものもあれば、古いものもあり、お手本のような無駄のないものもあれば、思い出いっぱいに飾られた賑やかなお仏壇もあります。
それぞれに大切にされていて、個性が出て、とてもいいなーと思うんですね。
しかしこれは私の勝手な感想ですので、ちゃんとした方がご覧になったら、ちゃんとご指摘なさるかも知れません。
ちゃんとした方に怒られるかな。。

そして同時に、その家の歴史も感じることです。


また私自身の過去の記憶も引っ張り出されます。

主に子供の頃の夏休みの記憶ですが、懐かしい記憶には懐かしい顔が。
数年前に亡くなったじいちゃんは、毎年夏になると山から竹を取ってきて、自分で竹串を作り、店先で鯖を焼いていました(実家は魚屋です)。
商店街に漂う鯖の匂いにはファンも多く、お客さんと談笑するじいちゃんの横に立ってその姿を見ていたものです。

夕方には魚が入っていたトロ箱を割って、風呂を沸かす燃料にしていました。
(30年前の田舎では、まだ薪風呂がありました)
ご近所の友達が集まって花火をすることにテンションが上がった幼い私は、その薪で風呂を沸かしてもらい、ご満悦。
お風呂上がりに素っ裸でソファを飛び回っていました。
ところが足を踏み外し、ソファの後ろにあったガラス戸にお尻から突っ込み、なんとお尻はガラスだらけ。
じいちゃんを驚かせたのも夏の思い出です。


それぞれに思い出される夏の風景があるのではないでしょうか。
浄土真宗では、亡くなった方は仏様となってすぐにこちらに還ってきて、私どもをお浄土に導いてくださる大仕事をなさっているため、お盆に改めてご先祖様が還ってくるというような事は言いません。
しかし、お盆参りの期間中何度も立ち合わせていただいたように、家族が集まって阿弥陀さまの前で手を合わせお念仏申す中に、亡き方を偲び、思い出を懐かしむ事はあろうかと思います。


日々の中では様々なことがあり、大なり小なり辛いことも腹たつことも多々あります。
もちろん嬉しいこともたくさんあります。
そんな中で、思い出は美しく補正されているのかもしれません。
しかし、「今、ここ、私」が阿弥陀さまの願いの中で生かされているように、「過去、あの場所で、私」もまた、阿弥陀さまの願いの中で生かされていたことでありました。

それに尽きる気がします。
あんまり難しいこと考えんと、願われていることを素直に喜んだらええわいな、と思う30年後の夏でありました。
そんな風に思うのは、暑さに茹って頭がぼんやりしているせいでしょうか。
それとも、普段からそんなに難しいこと考えるのが苦手だからでしょうか。


ようようお出遇いさせていただきました。

称名

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