無数の中心

 ぐるぐる。――ぐーるぐる。
 あはは、いえがまわってる!

 幼いころ、誰しも一度は、わざと目を回して遊んだことがあると思う。僕は五歳くらいの頃、その遊び、或いは小さな実験に、かなりのめりこんでいた。

 本当は家が回っているのではないとは分かっていた。家にあった図鑑で、耳の中にある何らかの器官が、上とか下とかを感じていて、回るとそれが錯覚を起こして、目が回る、というところまでは何となく理解していたからだ。

 一人寝室で回っていた僕には、自分が今どうなっているのか分からなかった。もしかして、平衡感覚を失った僕の頭が、自然と揺れてしまっているのではないかと考えた。そこで、回っては頭を鷲掴みにする、ということを何度も繰り返した。けれども、揺れずに支えることができているという確信が、全く持てないのである。
 僕は考えた。自分の意識が回っているのではなく、僕以外が回っているという可能性もあるのではないか。また、それがあり得なくても、自分を中心とした視点を持つことも許されるのではないか。と。

 その当時にそこまで思考が繋がっていたとは断言できないが、僕は天動説のモデルを見るとこの遊びを思い出す。僕はあの頃、自分をひとつの星に見立てて回っていたのだ、と思えてくる。
 地球は自転しながら太陽の周りを回っているという、俄かには信じがたい地動説と、それを知った後だと滑稽にさえ感じられる、複雑な天動説。人間中心的で閉ざされた宇宙を持つ天動説は、地動説の時代に生きる僕の心に、むしろ、広がりを与えたのだ。

 ついこの間、イタリアの哲学者・ジョルダーノ=ブルーノ(1548-1600)の宇宙論を知った。

われわれが~(中略)~円の中心に自分たちはいると言うのと同様に、疑いもなく月の住人たちは、彼らこそが~(中略)~中心にいると信じている。

『無限宇宙と諸世界について』、コイレ前掲書、pp.31-2

 彼によれば、宇宙には無数の中心があるという。彼の宇宙論は感覚的なものだったし、「無数の太陽のような恒星の周りを衛星が回っている無限の宇宙」、というような結論だった。けれども、僕は、引用部分――彼の理論の根底にある感覚――だけを都合よく呑み込んで、深く頷いた。

 僕は寝室で、紛れもなく宇宙の中心にいたのだ。

 最近もごくたまに、宇宙の中心を思い出して回ってみることがある。昔はあんなに夢中になって回っていたのに、今となっては、少しくるくる回っただけで、すぐに気分が悪くなる。それは単に身体の問題なのだろうか。

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