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イスラーム的便利な表現

 たいしたものではないのだが、語学教室の講師を務めたことがある。入門クラスなので文字の読み書きと発音から始まって、基本的な表現、新出単語などを攫っていく。多くの場合は会話ができるようになることを望まれており、というわけで挨拶表現なども学ぶのだが、これがまた曲者なのである。挨拶表現はいろいろな言語でわりと例外的な語彙や表現をすることが多く、初学者にはあまりいきなり教えたくないのである。

 いや、挨拶表現はもうそういうものだと割り切って覚えさせるという方法もある。アラビア語での挨拶は「アッサラームアライクム」で、それを「ワーアライクムサラーム」と返す、というのはよく知られた表現だろうか。前者が「あなたに平安あれ」で、後者が「あなたにも平安あれ」である。

 このアラビア語の挨拶、具合がいいのか悪いのか、アラビア語以外でもよく使うものである。イスラームの伝播はアラビア語を持ち込んだ。全能の神によって明晰であるとお墨付きを与えられたアラビア語の挨拶は、いまや世界中のムスリム(イスラーム教徒)もがよく使用する表現である。日本人のムスリムもアラビア語でアッサラームアライクムと返す。それはイスラーム圏であるマレー世界でも同じである。

 ところがマレー世界、いや、マレーシアにはひとつ不文律がある。ムスリム以外がムスリムの挨拶をするのはよくない、ということで「アッサラームアライクム」と言われれば「ワーアライクムサラーム」以外の表現で返さなければならないし、こちらからムスリムに「アッサラームアライクム」と呼びかけるのはあまりよろしくないのである。
 知らない番号からの電話を受けると「アッサラームアライクム!」と元気に言われることがあったが、ようは相手はこちらをムスリムと思って話している。気を利かせて「ワーアライクムサラーム」と返すのではなく「ハロー」と言うのだ。

 そう、マレーシアに限らずイスラーム圏では電話口の「もしもし」の表現を「アッサラームアライクム」と言うことができる。マレーシアならこちらがムスリムであれば「ワーアライクムサラーム」と返せるが、僕はムスリムではないのでこの便利な表現はできない。

 どこかのお宅や部屋を訪ねたときにドアを叩きながら「アッサラームアライクム!」も言えるし、知らない人に話しかける「すみません」の表現も
「アッサラームアライクム」でできてしまう。万能表現である。他のイスラーム圏はわからないが、少なくともマレーシアではムスリムどうしでなければ禁じ手である。
 「いやいや、俺は気にしないよ」という人もいるかもしれないが、ムスリム以外がイスラーム固有とされる表現を使用することに眉をひそめる人が一定数いる以上、個人どうしの合意が確立されていなければむやみに発さないほうがいい表現なのである。
 なにせマレーシアはキリスト教徒が神のことを「アッラー」と表現していいかどうかで最高裁判所まで争われた国だ。マレー語ではキリスト教のあらゆる表現をイスラームから、つまりアラビア語から借用しているのが、それもやめろと言いたいのである。けっきょくはキリスト教徒でも「アッラー」と呼ぶことは認められたが、こういった話は珍しいことでもない。

 マレーシアでアラビア語由来の便利なことばは挨拶に限らない。神の望みのままに、ということで「インシャアッラー」とか、なんと喜ばしきこと、「アルハムドゥリッラ」なども、イスラーム由来の表現をムスリム以外が使うことは推奨されない。
 キリスト教にも同様の表現はあることはあるが、これらはお隣のインドネシアであればキリスト教徒でもアラビア語由来のものであっても日常的に使用している。あちらにも一言モノ申すムスリムはいるだろうし、少なくともマレーシアでは使わないことで余計な火種を生まないのであればそれがいい。

 ムスリムでないと使えない!なんて書いているが、逆にいえばムスリムはわりと日常的に使っている表現なので、マレーシアに縁のある方はマレー語ができなくてもムスリムの会話に耳を傾けてみるのもおもしろいかもしれない。ことばを通じて、ムスリムや一神教徒がどのような世界観で生きているのかも垣間見えるかもしれない。

 話は冒頭に戻るが、僕が語学教室で教えていたのは韓国語である。こちらの挨拶はアンニョンハセヨ。漢字で書けば安寧であり、直訳すれば「安寧ですか?」である。ことばの使い方もおおよそ入門初級クラスであれば挨拶でしか使わないので、あまり初っ端から教えたくないというのは文法上の問題だ。この表現はアラビア語の「あなたに平安あれ」と少し似ているところがあるだろうか。韓国語のこの表現は宗教的なものではないはずだが、初歩的な挨拶表現にしてひじょうに好きなことばである。僕は他の人に平和を尋ねたり祈ったりしたい。

 ムスリムであれば使えるのだけどなあと思うのだが、イスラームに帰依するつもりはいまのところない。もちろん一寸先は闇、神の思し召しのままに導かれる可能性もあるのかもしれないが、それこそ「インシャアッラー」である。
 けっきょくのところ僕はこれらの表現になんとなくのかっこよさを感じているという話である。電話口で「アッサラームアライクム」だとか、将来どうするのって訊かれたら「インシャアッラー」とか、という表現が粋だなあと思っているだけだ。いや、もしかすると信仰について日常的に表現できることについての羨ましさかもしれない。日本語では少し堅苦しいし、なんかやばいヤツ感がでてくる。それも含めて語学は使い分けなどが難しいものだと改めて実感するのである。

 最後まで読んでいただいた方に祝福あれ。

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