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商店街に流れる聖歌

アレルヤ、アレルヤ。
マリアは天に上げられた。天使の群れは喜び輝く。
アレルヤ、アレルヤ。

聖母被昇天の祝日ミサ アレルヤ唱

 何もないところにぽつんと教会だけが高々と聳え立っているのが見える。いまでこそ特急も停車するような交通の要衝であるが、1950年頃の写真をみると周囲にそう建物が多くないことがわかる。この教会がある地域一帯はかつて軍需工場で、その跡地を進駐軍からカトリック教会の関係者に続々と払い下げられたらしい。おかげで駅前ではときどきシスターがてくてく歩いているのが見られるし、カトリック学校が丘のほうにある。駅前にビルが建ち並んだいまも、ホームから教会の屋根が見える。

 東京に移り住んだ僕が通いはじめたこの教会の名物といえば聖母被昇天祭のマリア行列である。聖母マリアが生きたまま天にあげられたことを記念するこの聖母被昇天祭で、教会からマリア様の山車を曳き、アーケードの商店街を通り抜けて町を一周するというのだ。日本全国でも殆ど見かけないであろうこの聖母行列が楽しみで待ちわびていたのだが、その前の月の青年会の定例会で「マリア行列に行っているあいだに納涼祭の準備をするので青年会は行列に参加しない」と告げられた。マリア山車といっしょに地域をめぐれるかと思ったのだが、そのあいだに青年会は準備に追われるらしい。

 当日、夕方から始まる被昇天祭のミサの数時間前に教会に集り、青年会のメンバーとともに大量のパイナップルとやスイカなどをカットしていた。青年会のメンバーには料理人がおり、カットしたフルーツをどう盛り付ければきれいに見えるかなどを考えているのは楽しかったが、教会の会館に準備されたマリア様の山車を見ながらこの行列についていくことはないのかという微妙な感情を胸にフルーツをカットし続けたのである。

料理人さん監修。見栄えがとてもいい

 フルーツのカットが終わって一息ついていたときに教会の役員のおじさんから「行列のときに聖母讃歌を流すのでスピーカーを担いでほしい」と声をかけられた。事務所に連れていかれると大きな筒状のスピーカーが2台。これを青年会の若造が持ってくれというわけだ。ラグビーをしていた僕ができることは力仕事しかない。納涼祭の準備がしたくないわけではなかったのだが、行列に参加できるとなると嬉しい話である。

 17時からの被昇天祭のミサは荘厳だった。特別な日にしか歌われないラテン語の聖歌が歌われ、天にあげられた聖母を讃えた。ミサのあとに教会堂の前に現れたマリア様の山車はそう大きなものではなかったがしっかりとマリア様が乗っかっている。スピーカーから聖母讃歌「あめのきさき」を大音量で流し始めたら行列の開始である。

 この一帯の歴史をちゃんと調べていないのだが、おそらくは多くの人々よりも先に教会ができたはずである。1950年当時の写真を見る限り、教会のまわりはほんとうに何もないところだったことがわかる。いまや教会はこの東京のはずれの町のシンボルのひとつで、このあたりに住んでいる人たちも5人に1人くらいは教会併設の幼稚園出身なのではないだろうか。なので聖母像の山車を曳くことに理解のある人が多いのである。おそらくは。

 住宅街を抜けて商店街に入ったらスピーカーの音を消すように指示されていた。初めはアーケード内で響いてしまうからだろうとかと考えていたが、予想は逆の方向に外れた。アーケードのスピーカーから「あめのきさき」が流れているのである。そのなかを我々教会の信徒が列をなしてマリア様の山車を曳きながら行列している。あとで聞いたが、商店会にも信徒の方がいて話を通しやすいのだという。

聖母像とともに商店街を歩く

 この聖母行列にどのような意味があるのかわからない。なぜ我々は地域の人たちに見えるようにマリア像を曳いているのだろうか。神道の神輿であればそれぞれの町会にあるものを氏神神社に運ぶという目的があるのはわかるのだが、冷静に考えてみるとこれをするのはなぜだろうかと思ってしまうわけである。 確実に言えるのは「教会の人たちが何かやっている」と存在感を示すことができることだろうか。マリア様が生きたまま天にあげられたことやマリア様には原罪がないことなど、いろいろマリア様について言えることがあるのかもしれないが、それ以前に神を信じて聖母により頼む人たちがこれだけいるのだとアピールする機会である。きっとこれを見て教会に来ようと思う地域の人はそんなにいないと思うのだが、ひとつの宣伝活動にはなっている。いや、宣教というべきか。

 20分ほど地域をぐるっと回って教会に帰ってきた。行列に出ていたあいだに青年会で教会に残ったメンバーたちが最後の準備をしてくれていて、スムーズに納涼会を始めることができた。僕は汗だくになってスピーカーを担いだあとの自分で切ったパイナップルは美味い。

 「むかしは商店街で聖歌を歌って行列するのが恥ずかしいと感じていたが、いまでは堂々と歌える」という教会役員のスピーチを聞いていたのだが、たぶんふつうは恥ずかしいものなのだろう。僕は嬉々として聖母を讃えながら歩いていたが、それは引っ越してきたばっかりでこの地域にほとんど知り合いがいないからだろうか。いや、地元でもたぶん堂々とやっているか。日本にキリスト教徒は1%もいないというが、ここ東京の一角で地域に生きる教会を見ることができた被昇天祭であった

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