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初めての「外国」北京で迷子

 高校に入学してすぐに中国語教室で中国語を勉強し始めた。
 僕が学んだのは漢語拼音と簡体字ではなく注音記号と繁体字である。台湾系、というか「国府系」というほうが正しい環境だった。孫文先生の肖像画と蒋介石総統のありがたいおことばに囲まれる毎週土曜日。それが僕と中華との本格的な出会いだった。
 中国語を習おうと思いたったきっかけは、中学生のときから香港映画に凝っていた香港映画と広東語である。あのリズミカルな広東語を学ぼうと思ったものの、広東語を教えてくれるところが少なく、香港でも書き言葉は同じだからと先に中国語を学び始めようと考えた。家から近く月謝も安かったのが大阪中華学校の中国語教室だった。
 週にいちど一年だけ勉強してもそんなに使い物になるわけでもなく、でも少しであれば理解はできるのかなというレベルである。やっと中国語の感覚を掴めてこれたくらいだろうか。本やネットで中華圏のことを知ろうとしていたが、じっさいに行って感じてみようと思って、お年玉を叩いて春休みに北京に行くことにした。身近な台湾でなかった理由は覚えていないが、バックパッカー的なことをするなら中国大陸だ!というかんじだったのだろう。

北京の中心繁華街、王府井。いまは変わっているのだろうなあ。

 それまで海外といえば韓国にしか行ったことがなかった。それも親戚のところばかりで、しかも韓国学校に通っていたので、「外国」という感覚はあったがことばがまったくわからないわけではなかった。行くたびに「俺は韓国人にはなられへんな」という実感を強めただけである。
 関空発のANA機が北京上空に差し掛かって高度を下げていき、地上が見えてきた。初めて見る「外国」は褐色で、どこまでも広く、赤と青の色がついた屋根の建物がやたらと目立ったのを覚えている。2012年の春、ちょうど10年前に右も左もわからないまま北京首都国際空港に降り立った。
 

 空港から地下鉄に乗り目星をつけていたユースホステルに向かおうとしたが、人民元に両替しなければならない。少額は空港で両替したが、市中の銀行で一気に5万円ほど人民元に替えようと思ったのである。当時はスマホが普及しておらず「ガイドブックを開くと旅行者とばれる(=すりに狙われる)から外では開くな」というアドバイスを真に受けたので開けず、空港からの地下鉄の終点の駅近くで銀行を探したのである。だいぶチャレンジャーなことしたもんである。

中国大陸でいちばん古い地下鉄路線である北京1号線には古い車両も残っていた。

 銀行はすぐに見つかり、両替したい旨を中国語で伝える。はじめての中国語チャレンジで意味は通じ、パスポートを提出したら銀行員になにやらまくしたてられた。うーん、わからん。その支店には英語も日本語もできる人はいないらしく、ちょっと偉いお姉さん行員がメモに「19岁V、18岁×」と書かいて見せてくれた(Vはチェックマーク)。岁は歳の簡体字である。もしかしたら18と17だったかもしれない。いずれにせよ、16歳のクソガキは両替できないということであった。

 困ったことになった。スマホ普及前で調べようもないし、行員さんもおなじように困った顔をしている。いまなら近くの人を捕まえて「ちょっとお金あげるから両替してほしい」とか言ってみたり、銀行で「お願いお願いお願い」とごねてみたりするかもしれないが、なにせ初めての外国で右も左もわからないのだ。
 「どうしたら両替できるか」を尋ねると「わからん、本店に行ってみろ」みたいなことを言われた。北京の地下鉄は当時一律2元、それくらいなら空港で両替した残りからでも出せる。たしか西単という駅だったと思うが、中国銀行のでかい本店に行くとあっさり両替できた。もしかしたら窓口にいたのが新人のお姉さんで「19岁V、18岁×」を知らなかった可能性は否めない。
 しかし初日からトラブル続きではないか。勇んで観光しようにもお金すら手にできていないのである。やっと手にした人民元を持って宿にたどり着き、荷を解いてから天安門広場に向かった。目当ては国旗降納式である。北京に行ったからにはこれを見んといかんくらいに思ったのだ。
 3月の北京は死ぬほど寒かった。とんでもなく寒いなかで人民解放軍兵士が直立不動で真顔なのである。こんな仕事はぜったいにしたくねえと思いながら国旗降納式を眺めていた。国歌が流れるかと思ったが、それは朝の掲揚式だけなのだという。
 夜は観光客らしく繁華街の王府井をぶらぶらし、よくわからない店でなんか中国っぽいのを食べた。

これが見たかったのである。

 さて本題である。
 北京に来たからには万里の長城である。東京に行けば東京タワー、福岡に行けば中洲みたいなもんである。万里の長城は文字通り長城だが観覧できるスポットがいくつかあり、取り敢えずいちばんメジャーな八達嶺に行くことにした。宿の人から「バスターミナルから〇〇番バス」と聞きメモ。準備は完璧だ。朝早く起きてバスターミナルに向かった。
 その番号のバスは簡単に見つかった。バスに乗り運賃を払ったときに運転手になにか言われたが、中国語などわかるはずもなく、つたない中国語で「ありがとう」とにこにこしながら座席についた。
 バスはほどなく北京市内から高速道路に入った。「八達嶺〇公里(km)」と書かれた標識の数字がだんだん小さくなってくる。そして八達嶺の出口を通過した・・・

万里の長城だぜ案内。いちいちでかい。

 おかしい。バスの番号は合っているはずである。いや、もしかしたらこの出口とは違うところから八達嶺に向かうのかもしれない。そんなことを考えながら車窓を眺めていると、不安がだんだんと大きくなっていった。万里の長城らしき構造物が一切、見えてこないのである。
 10分ほど乗っただろうか。さすがに今度こそ本当におかしいと思ってブザーを鳴らし、次のバス停で降りた。バスは走り去り、北京郊外の田舎で降ろされてしまった。

 道路がひたすら一本伸びていて、遠く向こうには雄大な山々が見える。車は一台とて走っておらず、周囲はどうも果樹園のようで人も歩いていない。大陸らしい景色だった。あのときなぜあの景色の写真を撮らなかったのだろう。まあ撮るような精神的余裕はなかったが。

 とんでもない間違いをしてしまったようだ。バスに乗る前に確かめるべきだったが、初めての外国である。だからこそ不安にならないかとも思うのだが、ただ言われた番号のバスに乗っただけで安心しきっていた。運賃を支払ったとき、もしかしたら運転手は「おまえ万里の長城に行くんじゃないのか?」と尋ねてくれていたのかもしれない。時すでに遅し。四国ほどの広さがある北京市の、どこかわからない田舎に放り出されてしまったのである。いや、自分が間違えて勝手に降りてしまったのだが。

 そのときパニック状態で考えられる解決策としては、道路の反対側に来るであろう北京市街地向きのバスに乗ることだった。取り敢えず道路を渡るが、バスがいつ来るのかもわからない。なんせ自家用車もぜんぜん走っていないような田舎である。
 20分くらい寒空の下で待っていただろうか、果樹園からおばあさんが出てきた。なにか中国語で言われているのだがまったくわからない。申し訳ないがこちらが一方的に「私は外国人です。八達嶺に行きたい」と中国語で言うと「ここで待ってろ」みたいなことを言われた。おばあさんもバスに乗るようであった。
 さらに待つこと20分くらい、いや、どれほどの時間だったのかも覚えていない。なんせ初めての外国でスリを警戒し腕時計すらしてなかったのである。ここに来るまでに乗ったバスとおなじ番号のバスがやってきた。ただしそこには「快车」の文字はない。あとで聞いたが、おなじ番号でも快速バスに乗ると八達嶺を通過してしまうのだという。おばあさんが乗り込み、車掌になにやら言うと開いている座席を指さされ、そこに座らされた。
 バスは高速道路に入らず下道を走り続け、観光客らしき人がたくさんいるところでバスが停まった。ここが八達嶺かと思い立ち上がると、おばあさんや車掌、近くの客が「まだ座ってろ」というようなことを叫んだ。怒鳴られてるみたいで怖いよ。

 またしばらく走ると万里の長城が見えてきた。車掌が「八達嶺」とだけ僕に言った。ここで降りろと手で示してくる。果樹園の脇から乗ったおばあさんに頭を下げて、万里の長城へ向かった。

スケールがすごいぞ

 八達嶺はとんでもない人だった。中国は連休ではなかったと思うが、とにかく人が多い。みんな途中で止まって記念撮影をしたりするものだからスムーズに登れない。そして寒い。バスに乗り間違え、異国で迷子になってしまったあとだったので、万里の長城を楽しむ余力はないかに思えた。
 しかしそこは中国である。とにかくスケールがすごいのだ。これを人間が作ったのかと素直に感動したもんである。もうなんかいろいろあったけど、ここに来ることができてよかったなと思えたのは覚えている。
 果樹園から出てきたおばちゃんやバスの車掌に乗客たちなど、面倒くさかったかもしれないが見知らぬ迷子の外国人を八達嶺に連れて行ってくれた。バスがたまたま八達嶺を通るだけだから親切をしたという感覚もなかったと思う。でも、つたない中国語で「ありがとう」は、あのバスを降りるときに言うべきだったのだと、10年経ったいま後悔している。

こちらは北京市内を走るトロリーバス。市バスは庶民の生活が垣間見えて楽しい。

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