見出し画像

第一巻 工場街育ち  4、工場街の火事

4、工場街の火事

※この小説は、すでにAmazonの電子版で出版しておりますが、より多くの人に読んでいただきたく、少しづつここに公開する事にしました。

 工場街の火事は、普通の住宅街の火事とは規模が全く違う。俺は2度ほど、本当に怖い火事に出くわしている。物心ついて初めて出くわした大きな火事は、『海渡化学』という化学工場の火事だった。もう夜の7時頃だったろうか、「火事だ、火事だ」と、外で騒ぐ声が聞こえたので家から飛び出した。少し遠いところだったが火柱が立っていて、見に行った。

そこでは火柱が天高くまで伸びていて、その火柱の先端で缶詰のようなものが破裂していた。誰かが、「あれはドラム缶が破裂しているんだ」と、言った。そのドラム缶は、俺には小さい缶詰にしか見えなかったが、あんな重いドラム缶が何で数十メートルも上空に舞い上がるのか理解できなかった。家からは歩いて十分以上離れていたので、火が来ることはないだろうと思いながらも、心配でどうしようもなかった。結局、その工場はほとんど全焼だったが、これには後日談がある。

 次の日に学校へ行ったら、緊急の朝礼があって、例の「海渡化学の火事」について話があった。危険だから焼け跡には近づかないように言われた。しかし、好奇心の塊みたいな俺達にそれを禁じるのは所詮無理なことだった。俺は兄と3人の悪友と共に放課後、焼け跡に遊びに行った。それは何か探検者のようで、いつも悪いことをする時はそうだが、どこかウキウキしたところがあった。

もちろん、焼け跡には侵入禁止の黄色いテープが張ってあったが、そんな物は簡単にくぐり抜けて侵入した。焼けた臭い匂いがして気分の良いものではなかった。海渡化学の工場の1部は、新川という大きな川に面していた。川幅は5メートル近くあっただろう、水量も結構豊富だった。何しろ昔は、この川を遡って大きな石を運んでいたらしい。上流には、でかい石材屋が数軒あった。

俺たちはさすがに焼け跡の中心に行くのは気が引けて、新川沿いの焼け跡を歩いていた。途中で、ちょど豆腐一丁くらいの大きさの白い塊が落ちていた。よく見るとそれは、ネバネバしたプラスチックのようで、ブツブツと泡が出ていた。ちょっと熱そうで素手では触る気がしなかった。

兄がそれを新川に蹴飛ばした。その瞬間である、川から直径2メートルくらいの水柱が10メートルくらいごう音と共に立ちのぼった。俺たちは不意を突かれて、ひっくり返った。要するに、全員たまげて腰を抜かしたのである。こんな凄い水のキノコ雲みたいなものは生まれて初めて見た。川のほとりにあるイワタ床屋の親父が驚いて、ぶっ飛んで来た。「一体何をやったんだ?」、それは俺たちが聞きたかった。イワタの親父が通報したのだろう、すぐにパトカーが来て、俺たちは警察署にしょっ引かれた。えらく怒られる事は覚悟していたが、これは犯罪じゃあないよなあと思いながら、パトカーに乗ったのを覚えている。

ポリスは意外に優しくて、事の経緯を詳しく聞いていた。兄貴が一番年長なので、事の顛末を説明していた。兄貴は、危険を察知して自分が川に蹴り込んだように強調していたが、事実は全然そんな風ではなかった。ポリスの話では、同じような事件が今日だけで3件もあったらしい。俺たちは、無罪放免で家までパトカーで送ってもらった。昔は、ポリスではなくて、駐在さんと呼んで、みんな優しかった。あとで大学で有機化学を勉強してわかったことだが、あの白い豆腐は多分、水素化アルミニウムリチウム系統のもので水と激しく反応して水素を発生する試薬の塊ではなかったのだろうか?

 大森の火事ではもうひとつ怖い思いをした。俺のうちはリビングとして使っていた六畳の和室と兄の勉強部屋だった四畳半の洋室と廊下みたいな四畳半の和室があった。俺は次男だし、たいして勉強しなかったのでこの廊下みたいな四畳半の傍に机を置いていた。親は俺がいずれは中学に行くし、勉強部屋が必要だと思ったのだろう、この四畳半の先に三畳の洋室と六畳の和室を建て増した。

狭い庭を潰して作った部屋だから、敷地いっぱいだった。奥の六畳の部屋にはでかいガラスの入った窓があり、それを開けると前面が隣のコンクリートの塀だった。手で触れるくらいの近さだから、よくこの塀の上に登って歩いたことがあった。塀の向こうは、松山電機という会社だった。松下電器、今のパナソニックの下請けで、テレビの前面の木枠や箱を作っていた。昔は、テレビは木の箱だった。この木箱に、ニスで塗装する時に多量のシンナーを使う。これが引火しやすく、毎年数回はボヤを起こして消防車が来ていた。

 俺が小学校五年の時だった。土曜日の半ドンで昼頃に家に帰った。途中で福山の伯母さんに会って、二人で帰宅した。彼女は、うちの母の姉だが、何しろ母は13人兄妹の下から2番目だった。この伯母は長女で年長だった。多分、うちの母とは20歳以上離れていただろう。そのため、うちの母はよく、「福山の伯母さんは、母親のようだった」と、言っていた。この二人は、ウマが合うらしく、伯母さんは一度来ると、一ヶ月ほどは逗留して帰った。子供は二人いてそれぞれ結婚していて、伯母さんは、俺の家を含めた3カ所を順繰りに回っていると言っていた。

彼女は、昔は水戸小町と言われて、とても美人だったらしい。それに、和裁と洋裁が得意でお袋さんはとても頼りにしていた。うちの母は、和裁は習ったことがあるらしく得意だったが、洋裁はからっきしダメだった。世の中は洋服が普段着の大部分を占め始めた頃なので、母親の腕は子供服にはあまり発揮できなくなっていた。いつだか忘れたが、真っ白い布地が手に入った事があって、この伯母は2、3日で俺のワイシャツに仕立て上げた。あんな布地が本当にあっという間にデパートで売っているような豪華なワイシャツになるのを見ていて、俺は感動した覚えがある。口八丁、手八丁の伯母さんだった。

 話を帰宅後に戻す。家にはお袋さんはいなかった。母親は父兄会に出ていた。母親は、俺と伯母さんの昼食を用意して出かけていたので、伯母さんと一緒に食べていた。裏の方からパリパリとあまり聞かない音がしていた。伯母さんが俺に、「裏から音がするから見てこい」と、言った。俺は、奥の六畳に行って、世にも恐ろしい光景を見た。

裏の松山電機の便所らしき建物の窓ガラスが、吹き出す大量の炎でみずあめのように溶ろけていく光景だった。その大きな炎は、ちょうど向かいのこちらの六畳の和室の窓に襲いかかろうとしていた。俺の家が燃える、俺はその吹き出すでかい炎を見て直感した。俺は、伯母さんに「家が燃えている」と、告げた。その後に何をすべきか考えた。奥の六畳にはオヤジが昔通勤で使った古いカバンが置いてあった。その中には家の権利証とか通帳などがまとめてあり、万が一の時には誰かが持ち出すことになっていた。工場街でボヤが多かったので親がそうしたのだろう。俺はそれを持ち出して、伯母さんに「もう家はもたない、逃げよう」と、言った。

しかし、伯母さんは、俺を全く無視して、押し入れの布団を一心に持ち出そうとしていた。俺は伯母さんが、あまりのことに気が動転して、狂ってしまったと思った。布団なんかどうでもいいじゃないか、俺は命が大事だ、逃げるが勝ちだと思って、伯母さんをそのままにして逃げた。途中でカバンも重いので家の玄関に置いて手ブラで逃げた。その後どうしたかは全く記憶にない。俺の家の前は路地になっていて黒山の野次馬でいっぱいだった。俺はそこを抜けて街中をふらついていたらしい。

火事が収まった頃家に戻ったが、兄も母親も帰って来ていて伯母さんも無事だった。親父も夕方には帰って来た。家は完全には燃えてなくて、外から見ると半分くらいは残った。中はどこも泡消化器の泡みたいなものでドロドロでとても住めたものではなかった。伯母さんは、水戸の長男の家に帰った。伯母さんは、正気に戻っていたので安心した。

その日は一体どこに寝泊まりするのだろうと思っていたが、母親の宗教上の友達の家にお世話になった。親父とお袋さんは、立正佼成会という新興宗教に熱心だった。お袋さんにはその関係の友人は多く、家から十分くらいのところにある青山君の家に世話になった。ここも三人兄妹で、長女はもう勤め人だった。銀座のダイアナという有名な靴屋に勤めていた。次男は、俺とおなじクラスの奴で特に親しいわけではなかったが、ひょうきんな奴で誰からも好かれていて、俺は好きだった。長男は、彼の二つ上だった。彼の家もけっして裕福とは言えず、余分な部屋があるわけではなかった。

多分借りているのは、三部屋ほどしかないアパートで、そのうちの一部屋を空けてもらったが、うちの家族四人にはとても足りなく、兄貴が廊下で寝た。ちょっと寒くなって来た頃だったので、布団にもぐれることはありがたかった。みんな貧しい頃で、部屋は無理して空けられても、客用の布団とか貸布団などがない頃だった。

ところが、俺のうちだけは全員の布団が持ち出されていたのだった。俺は寝る時になって初めてそのことに気がついた。伯母さんが、全部持ち出してくれていたのだった。伯母さんは、あの時狂ってなんかいなかったんだ、極めて冷静に布団の重要性に気がついていたんだ。俺は脱帽した。そのことをお袋さんに言ったら、「姉さんは、戦争中にいろいろ火事に遭っていて、修羅場をくぐり抜けて来たんだよ」と、言っていた。年寄り恐るべし、俺はこの時肝に銘じた。おばさん、狂っていたなんて思ってごめんなさい。

 工場の 焼け跡で見た不審物 川に蹴り込み 熱水柱 

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?