エラーキャンセル

 チカは店に入るやいなや、大きなあくびを一つして赤いマフラーの結び目を前に持って来て、解いた。わあー、あったかい。

「今日は、冷えますね。夜、遅かったんですか? 」

と、Barケイの常連であるシンジが尋ねる。彼はどす黒いビールを飲んでいて、いつもチカはその黒いクラフトビールをよく飲めたものだと思っていた。アフターダーク。

「動画、見てたら眠れなくなっちゃって」
「動画? 」
「はい、MLBのエラーキャンセル集」
「エラーキャンセルって? 」
「一度グラブから出ちゃったボールを素手でキャッチし直して、そこからアウトにしたりする、プレーの動画です」
「へえー」

興味なさそうにシンジはビールを一口飲む。ヒゲについた泡をおしぼりで拭う。そこまでがシンジが一口ビールを飲むための儀式で、毎回拭くなら、つかないように飲めばいいのに、とチカが言っても、ビールの飲み方くらい自由だろ、とシンジは取り合わない。酔いが回ってくるとチカも、その飲み方やヒゲがセクシーだなあと思ってしまい、いつも朝になるとそのことを後悔した。

「質問して来たくせに興味なさそうにしますよね、別にいいんですけど」
「いえ、興味ありますよー、チカさんの見てる動画なら、なんでも」
「また。そんな軽い口は北風に飛ばされればいいんです」
「チカさんの尻ほどじゃないですよ」
「帰りますよ? 」
「あ、あっ、すいませんって、言いすぎました。一杯奢るから、ほら、飲みましょう? 」

ケイのマスターがシンジを諌めて、チカの大好きなヒューガルデンビールを瓶で出し、二人は乾杯した。シンジは、黒いヒゲに黒い泡をつけておしぼりでゆっくりとそれを拭い、チカはほとんど瓶の半分くらいまで一気に飲んだ。マスターが今度はチカを諌めた。あんまりスタートダッシュしないでゆっくりいてよ、と。外では、北風がヒュルリと街を冷ましていった、ケイの中は冷奴のように柔らかな空気をごうごうという暖房が温めていたので、冷たいビールが美味しかった。

「どうしてエラーキャンセル集だったんですか? 」
「たまたま、おすすめに出て来たからですよ」
「運命ですね、僕とチカさんみたいに」
「大げさですね、私とシンジさんは飲み友達です」
「そんなあ」

チカはヒューガルデンを飲み干して、もう一杯ご馳走になりますね。大げさに、とシンジに言って、マスターにもう一本のヒューガルデンを促した。二人はポツポツと話し、たまにスマートフォンを触り、たまにマスターを挟んで三人で話した。

「お客さん、来ないですね」

シンジがマスターに言った。チカと二人でいることを殊更に意識するように。

こんな雨だもの。仕方ないよ。

マスターは少しニヤつきながら低い声で言った。

「雨?」「雨ぇ!?」

うん、すごい雨だよ、音、聞こえるでしょ。

「帰れねえじゃん…」「帰れないよ」

だね、もう少し雨宿りしていきなよ、一杯ずつ、サービス。

雨の止んだ静かな街を走った二人は、息を切らせてゆっくりと歩いた。雨水が車のライトや街灯を反射し、イルミネーションよりもそれらは美しく輝いた。もうちょっと、飲んでいきますか? とチカは聞き、シンジはそうですね、今、最終電車行っちゃったし。と答えた。この歳になって飲み屋で終電逃すと思ってなかったな、と、シンジが言い、本当に、とチカが笑った。

次の日、ケイに二人してやって来たチカとシンジにマスターは笑っていらっしゃいと声をかけ、電車、間に合わなかったんだ? と聞いた。

「大きな大きなエラーです」シンジが言った。

へえー、ヤったんだ?

「エラーです」今度はチカが答えた。

ふーん。じゃ、祝杯。今日も一杯サービス。

「エラー、だよな?」
「エラー、ですよ?」

二人は、キャンセル。と声を揃えてビール瓶とグラスをかちんと鳴らした。

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