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同級生に宗教勧誘された話+神について

題名の通り最近宗教勧誘されました。
今の時代に大学生(しかも同級生の)勧誘って珍しくね?と思い、ふざけつつもちゃんと数時間真剣に聞き入れたため、記事にしました。

⚠️キリスト教・イスラム教の方
宗教は自由であれという思想持ちなので、最後に真剣に神について考えました。
これを免罪符としています。信じたいものを各々信じましょう。


第一章 - ラインによる福音書


…そのラインは突然だった。突然心配のラインが来た。

『最近、授業で見ていないけれど、大丈夫?』

私は休学中だった。また人間関係とうつ病に悩み休学した故、気にかけてくれる人物がいるというのは嬉しい。
そのライン主とは特別仲がいいわけではなかったが、ささやかな交流の中でも彼女の優しさは伝わっていたし、特段目立つ子でもないので噂も何もなかった。
なので正直に話した。

「心配してくれてありがとう😭うつ病になっちゃって、ちょっと休学してます!」

『そうなんだ!何か相談があれば言ってね!というかもう(私)ちゃんが恋しいです😢ぜひランチでも行こう!』

「そういってくれて嬉しいです!ぜひ都合いい時誘ってね〜✨」

多くの人がそうなのだが、『⚪︎⚪︎行こうね〜』「いつか行こう〜」は、大抵来ないか、直近ではない。しかし違った。

『よかった〜じゃあ水曜か土曜はどうかな??』

(??まじか)
こんな直近だとは思わなかった。まあ日付まで指定されているし、彼女は話せるタイプだ。私は与えられた日付の選択肢の中で、土曜日を選んだ。
この時は、大人しい子故、話が合うかどうかが問題だった。
本当の問題は思想の相違だということに、この時は気づいていなかった。

第二章 - 天使のファンファーレ


…世界の終焉が来る時、天使のファンファーレが鳴り響き、それを知らせるらしい。そのファンファーレの第一のラッパは食事中のたわいもない話に鳴った。突然だった。
『日曜日は教会があるから部活にいけないんだ〜』
ん?教会??????
普段女子大生が口にしない単語だ。最初は寺巡りならぬ教会巡りの趣味か?そう思った。そこで、
どう言う感じのことするの、そう聞いてみた。
『うーん基本はお祈りだけど、うちの教会は歌ったり踊ったり、結構激しいかな〜』
プロテスタントとか?と聞くと、うんと答えてくれた。よかった。エホバでなかった。(医学部なのに輸血禁止のエホバでいいのか?という思い故の安心)
またお父様のご職業が牧師らしい。(牧師さんってどうやって生活してるんだろう?と思った)

…そこから、いつもよりやや饒舌になった彼女は宗教の良さを語ってくる。
第二のラッパが鳴ったようだ。しかし、聖⭐︎お兄さん好きの私は、聖書についてやや興味があったし、その漫画のおかげで本当に微々たるものだが、所々を知っている。そこで色々知らない聖書のストーリー、なぜ信じるのか、宗教戦争観、原罪、自由意思について聞いた。
知らない文化というのは面白いな、と改めて感じさせられた。
『(私)ちゃんもぜひ教会に来てみない??』
「家が仏教原理主義だからどうかな〜」
仏教原理主義など存在しない。原理主義って過激派っぽいという考えのもと発言した。また、知り合いの病気の人が神を信じることで表情が明るくなった等には、「うーんうちはクトゥルー原理主義の叔父がニャルラトホテップ信仰してるからな〜」とか、ちょっと家庭環境やばいから関わらない方が良い感をどうにか演出していた。勿論クトゥルー原理主義などない。
そこから料理が出たことをいいことに、宗教話から離れられた。

帰り際に3つめのラッパが鳴った。
よくホテルに置いてある(本人談)新約聖書を渡されかけたのだ。
とりあえず知識がないし仏教原理主義だから、と断った。
もう一度言うが、仏教原理主義など存在しない。
そこから太陽神ラーの祝福か、熱い日差しが差し込みもう熱いので帰りましょ〜となり、なんとか彼女の勧誘から逃れた。

いつ我々の間に残りの終焉のラッパ四つが鳴り響くかは分からない。
最後の聖書受取拒否で疲れ、仏の顔メーターの残機が一減った。

第三章 - 追い福音(追いライン)


追いラインはすぐに来た。私が家に帰宅し、スマホを見ると通知が来ていた。
もう面倒いのでスクショを貼る。

やり取りから分かるように悪い子では決してない。彼女は真剣に私を救いたい、幸福にしたいと思っているからだ。まあ踏み込んだ事を聞いた自分もあれだし、まだラッパの残機はあるので、また面白い進展があったら記述したい。

最後に

…この経験からちょっと神について考えて私の中での結論が出たのでここに記述。ちゃんと書いてあるからつまんないと思う。

Q. 神ってそもそもおるん?
A. いるかもしれんしおらんかもしれん。アインシュタインのパクリだが、力は何者かが与えることで働き、生物の構造の奇跡、等々から神はいるかもねというスタンスだ。

Q. 仮にキリスト教的神がいるとしたら?
A. あまりにも人種差別すぎない?と感じた。
なぜなら、神は人間を導くためイエスをこの世に賜うたとする。でも当時はアフリカから始まった人類や、すでに移り住んだアジア人、アメリカ先住民にはなぜイエス変わるものが、神の啓示が無かったのか。仮にイエスの奇跡を史実とし、奇跡を見られた人間・見られなかった人間の間では、信じるきっかけやハードルが大きく異なるではないか。そしてこの神、最後にハルマゲドンという戦争を起こして世界を終わらせようとしている。あまりにも人間的で愚かだ。

Q. ではどういう思想に至ったのか
A. 神はいるかもしれないが、なんであれ最後は無という仏教観と神教のミックスされた思想だ。草も、豚も、命だ。彼女が聖書の一部に、悪霊に取り憑かれた人間をイエスが取り払う話を紹介してくれたのだが、この悪霊がせめてあの豚たちに移してくれと懇願し、イエスは豚たちに悪霊を移し、乗り移られた彼らは崖から自殺するというストーリーだ。なんの罪もない豚に悪霊が押し付けられ、死んでもいいのか?

この結論に至って自分の宗教観が分かったのはいいものの、では幸せ・生きる意味とは一体何なのだろう。そういう悩みができた。


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