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私の思う機能美「来た、見た、勝った」

「来た、見た、勝った」を知っている人には、以下の文章はきっと全て見透かされているだろう。だからさっさと言う。

 結局、文章は「来た、見た、勝った」が、機能としてもっとも美しいのだと。

 この主張は、前回の記事に関連する。

 この記事の最後で、私は「来た、見た、勝った」を文字って「見て、読んで、知れ」と書いた。主語と目的語を徹底的に排除するこの記述方法が、存外気に入っているものの、やはり、あまりに唐突過ぎた。

 「来た、見た、勝った」は、古代ローマ帝国で活躍したあのカエサルが書いた、戦果報告の手紙の全文である。

 完了形が命令形や接続型になっている時点で、オマージュとしてはお粗末。この記事は、それを認める文章だ。

 『ガリア戦記』という「名文」と称えられる文章を書いたカエサルは、持ちうる限りの素晴らしい文章力を存分に発揮できる機会を易々と投げ捨て、戦果報告を3単語にまとめてしまった。

 まさかカエサルの言葉だと聞いて、語彙力のなさを思い浮かべる人はいまい。だからこそ、これは機能美として成り立つ。

 場合に応じて、丁寧に説明するか、簡潔に述べるかは選ばなければならないが・・・・・・、このところ自分語りの長い男に辟易していたところだから、思わずカエサルの潔さに惹かれてしまった。


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