オキナワンロックドリフターvol.113

今回は大学時代に受講した日本語文章表現法にて提出したIslandの『少年の日』についての論文を掲載いたします。

「少年の日」における沖縄の混血児たちの原風景

沖縄の混血ロッカーたちの、それまで疎外されていた鬱憤が、血が、たち騒いだ。アメリカ兵もそれらをむさぼるように受け止め、有り余るエネルギーを発散させた。まさに青春と青春のぶつかり合いである。欲望が渦巻いていた。

(砂守勝巳 「オキナワンシャウト」筑摩書房1992年7月)

1995年8月、沖縄のポップグループ、「アイランド」のセカンドアルバム”Precious Time”が東芝EMI(現・株式会社 EMIミュージック・ジャパン)からリリースされた。アイランドといっても知らない方が多いだろう。まず、このアルバムがリリースされた1995年の出来事を辿ってみよう。「あの日の出来事・1995年」(1)とwikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/1995%E5%B9%B4)によると、1995年は第二次世界大戦終戦50年にあたる年であり、1月17日に戦後最大の死者6,342人を出した兵庫県淡路島を震源とする阪神・淡路大震災、3月20日にカルト宗教団体オウム真理教が起こした無差別テロ事件、地下鉄サリン事件が起き、日本全土を震撼させた年である。また、ザイール(現・コンゴ共和国)ではサルを媒介として発生したエボラ出血熱により多数の死者をだし、アメリカでは4月17日に2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ以前においては、アメリカ国内で最悪のテロ被害をもたらしたオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件が起こり、世界全体が混沌としていた年であった。

また、芸能界では沖縄出身でクォーター(2)の少女歌手、安室奈美恵が1月にリリースしたシングル「TRY ME―私を信じて―」(この曲は単独名義でなく、安室奈美恵withスーパーモンキーズ名義でリリース)を皮切りに、ヒット曲を連発。12月には初のドラマ主題歌「Chase the Chance」をリリースし、シングルでは初の首位、ミリオンセラーを記録した。さらに、彼女は当時の若者のファッションリーダー的存在となり、彼女のファッションスタイルを真似た少女達の呼称“アムラー”(3)はこの年の流行語になった。

一方で沖縄では9月4日に米兵隊員の運転する車両にはねられ母子3人が死亡する事件、同じ日に沖縄のキャンプ・ハンセンに駐留するアメリカ海兵隊の兵士3名が、当時12歳の少女を拉致、強姦した沖縄米兵少女暴行事件が起き、沖縄県民の反基地感情が高まり、沖縄県内の自治体においてアメリカ軍への抗議決議が相次いで採択された。

沖縄が生んだクォーターの少女歌手の爆発的な人気、米軍兵士による事件の多発と反基地感情の高騰。この二つの出来事で沖縄が揺れていた1995年に「少年の日」は、「アイランド」のセカンドアルバム”Precious Time”内の収録曲としてひっそりとリリースされた。

次に、沖縄のポップグループ、アイランドについて、沖縄県が立ち上げた沖縄音楽総合サイトのアーティスト情報から引用しつつ、紹介させていただく。

1970年代、沖縄から本土まで日本のロックシーンを震撼させた伝説のロックバンド「紫」。1978年のバンド解散後、メンバーはそれぞれ音楽活動を続ける。そして、紫のボーカル城間正男とベース 城間俊雄の双子の兄弟(以下、城間兄弟)が解散後に結成したグループが「ISLAND」である。ライブハウス「ISLAND」を経営し、ライブ活動を続ける彼らの曲は、偶然店に遊びにきた松任谷由美が惚れ込んだバラード「STAY WITH ME」など、ロックからバラードまで聴き応えがある。

(”Entertainment Contemporary Okinawan Music”http://wonder-okinawa.jp/018/artist/profile/i_02.htmlより)

「紫」とは、1959年から1975年にベトナムの南北統一を巡って起きた戦争、通称・ベトナム戦争のさなかである1971年に結成された沖縄のロックバンドである。沖縄からベトナムへ向かう米軍兵士たちの歓楽街であったコザ市(現・沖縄市)のライブハウスで、メンバーチェンジを繰り返しながら当時人気のあったDeep PurpleやLed Zeppelinといったブリティッシュハードロックバンドのヒット曲を米兵相手に毎晩演奏して実力をつけ、本土のレコード会社、徳間音工(現・徳間ジャパン)に見出され、1975年に本土デビュー。1978年9月、メンバー同士の意見の相違により解散するまでに3枚のアルバムをリリース。ファーストアルバムはミュージックライフ誌1977年3月号によると、当時の日本のロックでは異例の4万枚の売り上げを記録したそうだ。「紫」の音楽性は米兵相手にカバーしたブリティッシュハードロックの色合いが濃いが、1983年に「紫」の元ベーシストの城間俊雄と元ボーカリストの城間正男を中心に結成されたアイランドは80年代に流行したケニー・ロギンスやシカゴといったAOR(4)のカバーやそれに影響されたオリジナルのバラード、またはポップソングをライブハウス「ISLAND」にて観光客や地元の家族連れ向けに演奏していた。そして、1987年にお忍びで「ISLAND」に来店した松任谷由実がバラード曲「STAY WITH ME」を気に入り、ラジオ番組「松任谷由実のオールナイトニッポン」のエンディングテーマとして流したところ、リスナーから好評を博し、東芝EMI(現・株式会社 EMIミュージック・ジャパン)からメジャーデビューする。1989年にリリースされたシングル「STAY WITH ME」は、オリコンチャートでは最高位42位と振るわなかったが、沖縄県内の有線リクエスト、ラジオリクエスト、レコード売り上げでの総合1位を獲得し、沖縄のポップスシーンの頂点に立った。しかし、城間兄弟によるライブハウス「ISLAND」の放漫経営とそれに抗議したメンバーの離脱が重なり人気は低下する。1996年には経営難により、城間兄弟は演奏の拠点としていた「ISLAND」を閉店し、それに伴い、バンドは解散した。

今回紹介する「少年の日」は1995年8月にリリースされたセカンドアルバム”Precious Time”に収録されている。前年にメンバー3人の離脱があり、そのためかアルバムはポップソングから喜納昌吉の代表曲「花」のカバーまで収録された雑多なものとなった。作詞・作曲 ISLANDとクレジット(後に作詞者はボーカルの城間正男、作曲者はアイランドメンバーと東芝EMIのディレクター、山川サトシ氏の共作ということが、城間正男との談話で判明)された「少年の日」はそんなアルバム内では異彩を放っている。なぜならこの曲は基地の街に住む少年を描いた曲だからだ。

抱き寄せたその腕に 夏の香りがした/いつまでもいつまでも その手を振っていた/錆びついたFenceの 隙間から/空を見上げた/遠く遠く光る あの空に/いつか見た想いは 届かない/高く翼広げ あの空に/夢がひとつ 消えた

夏の日の少年は ただ海を見ていた/どこまでもどこまでも 青く続いていた/閉ざされたGateの 隙間から/風が流れた/遠く遠く光る あの海へ/いつか見た想いを 届けたい/過ぎた少年の日 信じてた/夢を あの日のように

一番の歌詞は主語と述語が端折られ、曖昧だ。「抱き寄せたその腕に 夏の香りがした/いつまでもいつまでも その手を振っていた」とあるが、それは少年の視点なのか。それとも別の人物の視点なのだろうか。その問いに城間正男(以下、正男)は電話にてこう語った。

「それは、俺と俊雄の視点で書いたの。抱き寄せたのは親父。親父との別れの日が凄く暑い日でよ、親父の手が汗ばんでてやけに熱かったよ。俺達の親父はフィリピン人でね、親父は基地で働いていたわけさ。でもよ、沖縄人が技術を覚えて基地で働きだしたらフィリピン人はお払い箱になったわけ。俺達が八歳の頃。1958年の6月に親父がフィリピンに帰ってしまったから」

砂守勝巳氏の著書、「オキナワンシャウト」の第一章・沖縄の混血ロックン・ローラーたちにて城間兄弟の生い立ちの詳細が詳しく書かれている。城間俊雄と正男は、沖縄のライカム(米軍政府琉球司令部)にて調理師として働いていたフィリピン人の父親と、ライカムの食堂にてウェィトレスとして働いていた沖縄人の母親との間に6人兄弟の長男と次男として生まれている。母親の親族の反対を押し切っての結婚であった。しかし、当時の暮らし向きは裕福で、父親の月収は300ドル。沖縄の公務員の月収が30ドルという時代では破格の収入だったようである。だが、フィリピン人の父親は母親と入籍できなかった。当時の沖縄では、米軍兵士、もしくは軍属のフィリピン人との入籍のない結婚が多く、彼らの大半が祖国に本妻がいたという。城間兄弟の父親もフィリピンに妻と子がいながら二重結婚をしていた。

城間兄弟の父親はフィリピンで職を探すために沖縄に残す妻子に「2ヵ月したら帰る」と言い残し、沖縄を去り、そのまま沖縄に帰ることはなかった。

「少年の日」に、「遠く遠く光る あの空に/いつか見た想いは 届かない/高く翼広げ あの空に/夢がひとつ 消えた」というフレーズがある。

それについて、正男の兄、城間俊雄(以下、俊雄)に聞いてみた。

「夢っていうのは、親父がいた頃に俺達がなりたかった職業やしたかったこと。でもよ、親父がいなくなってから生活ががらりと変わってしまってよー。お袋はいくつも仕事を掛け持ちして俺達を食わせてくれたさ。俺達はまだ弟たちがちいさかったし、家事や弟の面倒をおふくろのかわりにしなきゃならなかったからさ。大変よー、貧しかったし、栄養状態も悪かったしな(原文ママ)」

また、沖縄市が出版した沖縄市史資料集「ロックとコザ・改訂版」(沖縄市企画部平和文化振興課 那覇出版社 1998年3月)と「喜屋武マリーの青春」(利根川裕 南想社 1986年)によると、混血児は常に被差別の立場にさらされていたそうだ。朝鮮戦争で戦死したイタリア系アメリカ人と沖縄人女性の間に生まれたロックシンガー、喜屋武マリー(現・Marie)は同じ年の少年たちに「アカブサー(赤毛)」、「アメリカに帰れ」と言われ続けた少女時代を送ったという。また、個人的な話で恐縮だが、城間兄弟も「あいのこ」と呼ばれ、差別された過去を吐露された。父親が存命して沖縄におり、母親と婚姻関係を結んでいる場合の混血児たちの大半は外人住宅と呼ばれるコンクリート建築の一軒家に住み、米軍基地の中のアメリカンスクールにて高水準の教育を受けるといった裕福な生活を送るものが多い。当時の沖縄の人々はその生活への羨望と劣等感に苛まれながらも彼らに表立った差別はしない。しかし、外国人の父親が認知しない、もしくは祖国や戦場へ行ったまま帰ってこない家庭環境の混血児の生活は悲惨を極めたという。父親が不在ゆえの心細さ、貧しさ、そして差別に混血児たちは耐えるしかなかった。沖縄の人々は米軍兵士や軍属のフィリピン人の横暴や狼藉により募った鬱憤を彼らの子どもたちである混血児たちに向けたのだ。

そして、一番の「錆びついたFenceの隙間から/空を見上げた/」、二番の「閉ざされたGateの 隙間から/風が流れた/」は何を意味しているのか。

第二次世界大戦直後から沖縄返還までの資料を展示している資料館「沖縄市戦後歴史資料館ヒストリート」(沖縄県沖縄市中央1-17-17(当時))にて、1950年代から1970年代の沖縄の写真を数点見せていただいた。すると、沖縄市に近い北谷村(現・北谷町)の、現在ではナイトマーケットが催されているハンビー地区が飛行場になっていることが当時の地図によってわかった。Wikipedia (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E8%B0%B7%E7%94%BA)で北谷町について調べたところ、現在のハンビー地区は沖縄中部(沖縄市・宜野湾市・北谷町・北中城村)をまたがって土地を占めているキャンプ瑞慶覧の施設のひとつ、ハンビー飛行場だった場所で、1981年12月に沖縄県に全面返還されるまで軍用機の轟音で悩まされていたという。また、沖縄市の中心街にある胡屋十字路には嘉手納基地ゲートに通じる道(通称・ゲート通り)があり、嘉手納基地ゲートは朝7時頃になると、米軍兵士や基地勤務の沖縄の人々の車でごった返し、そのたびにセキュリティ担当の軍人がIDをチェックする光景が見られる。そして、ヒストリートの館長の好意により、基地のフェンス近くで飛行機を見上げつつ小さな畑を耕す農婦のモノクロ写真も見せていただいた。館長によると、その写真は1960年代のものであるという。写真を通して、同じ沖縄でありながら、肥沃な地を有している嘉手納ゲートの中やキャンプのゲートの中はアメリカさながらの光景。一方でフェンスやゲートの外では沖縄の人々が残された地勢の悪い土地を耕して、簡素な家で生活する当時の構図がわかった。現在も宜野湾市にある広大なキャンプ瑞慶覧(5)とその周囲を囲む住宅地の狭さをバスの車窓から見て比べる限り、それは変わっていない。

そして、正男が「少年の日」の歌詞の中であえて、基地を象徴するフェンス、ゲートをカタカナで表記せず、Fence, Gateと書いたのは日常的に話していた英語への親しみ、そして今もなお多くの米軍基地が存在する沖縄への正男の複雑な思いがあるのではないかと推測する。

遠く遠く光る あの海へ/いつか見た想いを 届けたい/過ぎた少年の日 信じてた/夢を あの日のように

「少年の日」の二番はこのフレーズでしめられている。それについて正男はこう答えた。

「あの頃の沖縄はそれほど建物もなかったし、海がよく見えていたさー。歩いているときに海を見てたわけさ、この海の向こうに親父がいるんだなと思いながら見ていたさ。親父がいなくなったことで生活ががらりと変わったわけだし大変だったよ。恨んだこともあったよ。でも、いい思い出もあったからね。いつか親父に会いたいと思っていた、親父にまた会って、俺達が幸せだった頃に戻りたいって気持ちがあったわけさ。それがこの歌の中での夢なわけさ。でも、ずっと後に親父が死んだと知ったからその夢はかなわなかったけれどよ」

前述の「オキナワンシャウト」によると城間兄弟の父親は1971年にフィリピンのパンガシナン州にて交通事故で亡くなっている。父親との再会は果たせなかったのだ。(6)

幾人の混血児の少年少女たちが彼ら同様、沖縄の海を眺め、海の向こうにいる、または戦死して帰らない父親の故郷を思ったのだろうか。

最後に。「少年の日」を聴き、1940年代から1950年代、朝鮮戦争の落とし子として生を受け、差別、偏見、奇異の眼差し、当時の沖縄での貧しさ。そして、父と母それぞれ違う国籍を持つものから生まれたことによる国籍、人種におけるアイデンティティクライシスと戦ってきた混血の少年少女の生い立ち、環境を学ぶことができ、また、沖縄の抱える基地問題、混血児たちの問題に未だ明確な解決策がなく、むしろ年月を経るごとに不透明化しているという重い現実を知った。2001年に、アメラジアン(アメラジアンとは、アメリカ人とアジア人との間に生まれた混血児をさす。沖縄の場合、殆どのアメリカ人は米軍関係者、アジア人の方は日本人かフィリピン人が多い)の父親が基地にいる間は軍から教育援助がされ、学校に通えるものの、父親が沖縄を去ると援助が停止され、教育が十分に受けられない子どもたちがいる学歴保障問題が沖縄でクローズアップされた。2002年には「アメラジアンの子供たち―知られざるマイノリティ問題」(マーフィ重松 スティーヴン (著) 坂井 純子 (翻訳) 集英社)が出版され、アメラジアンの子どもたちが抱える問題が提起された。

第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、そして近年のイラク戦争。戦争のたびに基地の街は翻弄され、「少年の日」の中で描かれた混血児たちは今も存在し、二つの血の中で揺れている。

  1. (http://www.tcstd.com/tcstd_club/time_slip/news/social1995.htm)

2.安室奈美恵の母親である平良恵美子(故人)はイタリア系アメリカ人の父親と沖縄人の母親との間に私生児として生まれている。彼女もまた、喜屋武マリー、城間兄弟と同じく戦争の落とし子である。

  1. 茶髪ロングヘアー・ミニスカート・細眉・厚底ブーツなど、当時の安室奈美恵のファッションを若い女性、特に十代の少女達はこぞって模倣した。それがアムラーである。

  2. 正式名称はAudio-Oriented Rock。歪みのない楽器音と怒鳴らない声が特徴で、上記で述べたアーティストやTOTO、クリストファー・クロス等が例として挙げられる。日本では「Adult-oriented Rock(大人向けのロック)」の略と解釈されてこの名称が使われた。現在、これらの音楽はAdult Contemporary:ACと呼ばれる。

  3. キャンプ瑞慶覧は司令部事務所の他、兵舎や住宅、小中高校、消防署、郵便局、銀行、PX(売店)、診療所、娯楽施設、運動施設、教会など、日常生活に必要なものが揃っており、一つの街を形成している。沖縄に行き、宜野湾市内を通るバスに乗ると、フェンス越しではあるがアメリカのショッピングモールのようなPXや住宅地が見られる。

  4. 補足すると、1983年に、城間兄弟は父親の墓参りと彼らの腹違いの兄弟との対面のためにフィリピンに行った。父親の墓前に手を合わせることで再会を果たしたのである。

< 参考資料 >

砂守勝巳著「オキナワンシャウト」1992年7月 筑摩書房刊

砂守勝巳著「漂う島とまる水」1995年8月 クレオ刊

高村真琴著「コザに抱かれて眠りたいZZZ」1999年月 ボーダーインク刊

沖縄市企画部平和文化振興課編 沖縄市史資料集「ロックとコザ・改訂版」1998年3月 那覇出版社刊

又吉栄喜著「波の上のマリア」1998年9月 角川書店刊

馳 星周著「弥勒世」2008年2月 小学館刊

利根川裕著「喜屋武マリーの青春」1988年8月 筑摩書房刊

野村旗守編「沖縄ダークサイド」2006年4月 宝島社文庫刊

マーフィ重松 スティーヴン 著 坂井 純子 翻訳「アメラジアンの子供たち―知られざるマイノリティ問題」2002年5月 集英社刊

< 参考にしたウェブサイト 沖縄ロック関連>

”Entertainment Contemporary Okinawan Music”

(http://wonder-okinawa.jp/018/artist/profile/i_02.html)

“It’s so easy”(http://homepage3.nifty.com/ItsSoEasy/)

“Great Shakes”( http://vivalamusica.hippy.jp/)

「マリー15年ぶり熱唱 バー開店で路上ライブ(琉球新報)」 ( http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-10328-storytopic-6.html)

「紫」研究室(http://www.geocities.jp/nay340501/murasaki1.html)

< 参考にしたウェブサイト 混血問題関連>

コスタムカ―外国人とともに生きる会―(http://www.geocities.jp/kumustaka85/jp.kokusaiji.html)

「国籍で制約改善訴え/アメラジアンめぐりシンポ(沖縄タイムス)」( http://www.okinawatimes.co.jp/news/2008-09-15-M_1-018-1_001.html?PSID=)

風俗ミシュランブログ(ジョー山中編)原典・「実話マッドマックス」2004年10月号( http://journal.call-girl.jp/success/wribbhbnxj.html)

(オキナワンロックドリフターvol.114へ続く……)
(文責・コサイミキ)

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