オキナワンロックドリフターvol.45

すっかりやる気をなくし、仕事以外はぐでぐでと毎日を過ごしていたらイハさんからメールがきた。

まいきーへ
大丈夫?サイトの更新ないけれどまだ引きずってるの?言い方はなんだけれど合コンとか行って気分転換したら?少しは気が晴れるかもよ

とは言われても、8月のオフ会の失敗があるし、合コンなんて行ったらどうなるのか。コミュ力の高い人たちに怯えながら固まって何も言えず場を白けさせる絵面しか浮かばなかった。
私はイハさんのメールに「今はそんな気になれませんがアドバイスありがとうございます」と返信し、また横になりながら本を読んだ。
そんな時だった。
私の携帯に一本の電話があった。
「どや、元気してるか?」
電話を取ると低い声の関西弁が耳に入った。かつては兄のように慕っていた知人の小野さんだった。しばらく連絡取っていなかったけれど一体なんなのだろうか?
話は過去に遡る。以前、私は特撮にはまっていた。特にとあるロングランコンテンツになっているヒーローものが好きで、小野さんが立ち上げたそのヒーローものの私設ファンクラブに14歳の頃から参加し、オキナワンロックに傾倒するまでは私設ファンクラブ主催のイベントとかにちょくちょく参加し、最年少会員というのもあり、古参の会員さんたちからよくして頂き、特に大阪で建築の仕事をされている会長である小野さんは当時拠り所のなかった私に親身に接してくれた。
しかし、80年代~90年代初頭に比べてオタクバッシングがやや緩和された90年代後半から00年代前半、やや好奇の目寄りとはいえ、30代~40代になっても特撮やアニメに夢中な人たちがバラエティ番組や朝の情報番組に取り上げられた時期があり、製作会社から許可をもらい、ヒーローの格好をして幼稚園や病院の小児科を慰問に行くボランティアをしている小野さんはテレビや雑誌に取り上げられた。しかし、それを皮切りに小野さんは変わっていき、芸能人気取りの言動が増え、本業からいつの間にかフリーランスのライター兼インタビュアーになってからどんどん傲慢な発言が目立つようになった。
それはまるで、私には素人枠の島田紳助と比喩したくなるくらい酷かった。
さらに悪いことに小野さんは私が物書きになりたかったことを知っており、小野さんは私がなりたかった仕事をしていることで、やたらと上から目線な発言が増えていった。
「おまえみたいな奴は本来なら社会に出てはいけない人間なんや。だからおまえは人の何十倍も努力せなあかん」
オキナワンロックに傾倒する1年前、小野さんが笑いながら放った言葉はちょうど何もかもうまくいかず落ち込んでいた私をパニック障害に陥れ、それ以来私は心療内科に通院するはめになった。
以来、精神衛生のために小野さんとは距離を置いていた。ちょうどオキナワンロックにはまりだしてから特撮のことを忘れていき、小野さんの発言から受けた傷は少しずつながらも癒えていった。
しかし、最悪のタイミングでの小野さんからの電話。一体なんなのか。
「今度の土曜あいてるか?俺、イベントで福岡にくるし福岡の会員と飲み会やるけれどお前も来いや」
ちょうど日曜が休みなので、仕事終わってからならとうっかり即答してしまった。
小野さんは苦手だか、事務局長を勤めている三村さんも来られるという。三村さんはハードロック好きで、初来沖の時に応援してくださった深紫さんと仲がいい方だ。三村さんと一度ハードロック談義ができたらなと思い、飲み会を承諾した。
仕事が終わり、大急ぎで熊本から博多まで。博多駅には三村さんが迎えにきていた。
三村さんの案内で私は会場である居酒屋へ。端から見るとロックバンドのローディーみたいな風貌の小野さんが仲間たちと談笑し、私を見ると片手を上げた。
以前は会えると嬉しかった小野さんだったが、過去に言われた酷いことからすっかり苦手意識が芽生え、固まってしまった。
しかし、私の飲み物に何も聞かずにビールを頼もうとする小野さんを制して「モスコミュール」と即答できたのは我ながら天晴れかなと少しほくそ笑んだ。
モスコミュールを飲み、好物の茄子の揚げ浸しや茶碗蒸しを貪りながら三村さんとレインボー、ブラックサバス、クイーンの話ができたのは幸いだった。深紫さんから聞いたのだろう、私が紫のファンというのを三村さんは知っておられ、正男さんのボーカルについて三村さんは熱く語られ、弾みで清正さんと下地さんのツインギターの話で盛り上がった。三村さんと紫の話をしていたら、清正さんと長い話をしたことや俊雄さんとモスバーガーで会ったことや正男さんから戴いた手紙の想い出が蘇った。
中途半端に終わらせたオキナワンロックを辿る旅。このままでいいのか?まだ私は清正さんのギターを聴いていない、俊雄さんのベースを聴いていない、下地さんにも会っていない。それにまだ正男さんに会っていないし、正男さんの歌を聴いていない。
心残りだらけじゃないか!
そう思ったら蓋をしたはずの感情がまた溢れてきた。
想い出をシェアしたくて、最初の来沖と二度目の来沖でのエピソードを問わず語りで三村さんにしてみた。話しながらだんだん私の顔は綻んできたのだろう、三村さんは目を細めながらこう呟かれた。
「オキナワンロックや紫のメンバーに出会えてコサイさんは幸せだったんだね」と。
そうだ。満身創痍になったけれど、自分の意志で行動して手に入れた想い出はかけがえのないものだ。
やっぱり、まだ旅を続けなければならない。
私は三村さんの言葉に「はい!」と即答した。
そんな私を小野さんが不満げな顔で一瞥していたが気のせいだろうと私はしらん顔でモスコミュールを追加オーダーした。
小野さんから呼び止められたのは飲み会が終わった午後23時だった。私は宿代節約の為にネットカフェを探そうとしていたそんな時、小野さんから服の袖を引っ張られた。
「なんや自分。三村と楽しそうに俺の知らん話をしよって。特撮の飲み会やろ?特撮の話をせんかい!」
小野さんはかなり酔っているようだ。酒と煙草混じりの息が臭う。
「関係ないじゃないですか」
私が言い返すと、小野さんはネチネチと絡んできた。
「沖縄のロックかなんか知らんけれど、どうせ飽きっぽいお前や。すぐぽしゃる。な?何で最近俺らのイベントに来えへんの?そういう中途半端やからなんもかんもうまくいかへんのや」
確かに今はオキナワンロックサイトは休止中だ。しかし、小野さんと何の関係があるのだろう。
泥酔して捲し立てる小野さんの話をじっくり聞いていると、私がかつて好きだった特撮俳優さんで、今は俳優を引退され、長いこと消息がわからなかったカタオカさんの所在が、とある興行師によってわかり、その興行師のプロデュースでカタオカさんは特撮イベントに出たり、自伝を出すという。しかし、カタオカさんの消息を興行師よりも先に掴み、自分がプロデュースしたかった小野さんにはそれが面白くなく、私がカタオカさんの熱烈なファンだったのを思い出し、カタオカさんと会わせるからという条件で私に公式ホームページを作らせようとしていたのがわかった。
だが、カタオカさんの公式ホームページは小野さんが敵視している件の興行師によって既に開設済みだった。私が仮に開設しても二番煎じにしかならないし、以前に比べて特撮というジャンルもさほど興味はない。そんな私がサイトを運営しても駄目なのではないか?
モスコミュール2杯でほろ酔い気味の私の頭でもわかることだった。
しかし、小野さんはしつこかった。
「お前、カタオカさん好きやったやろ?カタオカさんに会えるチャンスかもしれへんで!それにお前の愛の力と熱意でカタオカさんの目を覚ましてやれや。な?」
……要はカタオカさんのプロデュースを興行師から横取りして自分の手柄にしたいだけだろうと思った。そしてぽしゃっても私に責任を丸投げすれば自分は傷つかない。そういう魂胆なんだなと私は小野さんに対して怒りや憎しみよりも哀れみを覚えた。
「小野さん。私を利用しないで自分でなんとかしてください」
深呼吸してきっぱりと宣言すると小野さんの大きな手が私を突き飛ばした。
「自分、だいぶ悪い方に変わったな。もう知らん!二度と特撮のイベントに出るな!クソ女が」
捨て台詞と一緒に道端に唾を吐き、遠ざかる小野さんの姿を見ながら、幼い頃から私にかけられた呪いがひとつ解けていくのを感じた。
否定する人がいてもその人の意見だけが全てじゃない。
そう思い、私はネットカフェに行き、フリードリンクのウーロン茶で小さく乾杯すると一息で飲み、リクライニングシートを倒して眠りについた。
朝起きると、狭いリクライニング席で寝たせいか体は痛かったけれど憑き物が取れたように清々しい気分だったのがなんだか可笑しかった。8月の朝にアキちゃんがアドバイスしたように好きなものをゆっくり食べたら嫌なことが薄れるかなと思い、駅でおにぎりを買って帰りの特急の中で食べた。
昆布とツナマヨおにぎりを噛ったらどんどん力が湧いてきた。サイトを再開しよう。オンリーワンのサイト、上等じゃないか。ワールドワイドウェブの片隅で、私の言葉でオキナワンロックについて語り、配信しよう。
そう思いながら、私は人食い鬼が獲物を噛み砕くようにおにぎりを頬張った。

(オキナワンロックドリフターvol.46へ続く)

文責・コサイミキ

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