オキナワンロックドリフターvol.46
「そりゃあ災難だったねえ」
電話越しの深紫さんののんびりした声がやさしかった。
福岡での飲み会と小野さんとの喧嘩別れを深紫さんに電話でぼやくと、深紫さんは「あの人も相変わらずやねえ」とため息をつきながら問わず語りで小野さんの現状を話された。深紫さんの話から思ったより幸せでない小野さんの状態がわかり、なおかつ、危ない橋を危なっかしくぐらぐらと渡っているような小野さんの今の稼業を知り、今に瓦解するのではとそんな思いが脳裏を掠めた。
深紫さんがぽつんと呟いた言葉が今も記憶に生々しく残る。
「ミキちゃん、人を蔑みながら幸せを自慢する人は本当に幸せじゃない人だから。だからそんな人にバカにされても気にしない方がいいよ」と。
後年、幾度か自尊心を砕くようなマウントをかけられた時は必ず深紫さんの言葉を思い出しては余計な短気の歯止めにしている。
サイトを休止してもうすぐ3ヶ月となる頃。だんだん風が冷たくなる頃にはテルさんとイハさんのメールや沖縄旅行サイト等でコザの街が変わりつつある情報が入ってきた。
中の町ミュージックタウン構想。
本決まりになったこの再開発により、多くの店が移転ないし廃業するという情報がひっきりなしに流れた。
ステーキレストラン四季は園田の、大きな書店だった紀ノ屋のあった場所に移転。四季の関連店だった双龍飯店は閉店。大衆食堂ミッキーはパークアベニューに移転。歩道橋近くのジャンクボックスはギリギリまで営業していたが後に一番街に移転した。
俊雄さんと初めて対面を果たしたモスバーガーも移転が決まった。
変わりゆくコザの街。以前のような異国情緒は薄れていくのかなと旅人のエゴむき出しで網膜の奥に残ったコザの景色を思い返してはため息をついた。
さらに、だんだん疲弊していくコザの街を象徴するかのように想い出の店が次々に閉店したことをメールや他のサイトにて知らされた。
セブンスヘブン近くのシアトルズカフェがとうとう閉店したというイハさんのメールはやはりなという気持ちが過った。2月の来沖の頃から早じまいが増えたこのカフェは「長くもたないな」とは予測していたが案の定そうだった。
次に私が驚嘆し、落胆したのは“19th hole Tacos”の閉店である。これは、「コザに抱かれて眠りたい」の著者、高村真琴さんのサイトで知った。
さらに、閉店前日の19thで食事をとられた方のブログにて、閉店するなんて微塵も思えない程普段と変わらないご夫婦の店の様子といつも通り美味しいタコスの様子が描かれていて、私は悪い夢を見ているような気がしてならなかった。
さらに、高村さんはご自身のサイトにて、「くたばれ!再開発」というエッセイを書かれていた。それはコザに古くから住む人や住んでいる人に寄り添うコザリピーターには当事者でもないのにと眉をひそめられるものかもしれないが、高村さんの全身全霊が込められた叫びのような文体は胸をうち、なおかつむち打ち症になりかねないくらい大きく頷いたエッセイだった。今はサーバー元の閉業によりサイトは閉鎖され、残念ながらその渾身のエッセイは読むことはできないが、再開発後、2008年~2013年のがらんどうとしたコザを知ることになる者としては高村さんのエッセイは予言の書のように思えた。
テルさんからメールと電話で、ジミーさんはかなり長期の入院になるようだと教えて頂いた。しかし、テルさんの口調は明るい。
「なーに、ジミーさんのことだから充電してそのうち復活しますって!今までだってずっとそうだったんだから。ねっ!だから、ミキさんもしょげないの!」
テルさんのジミーさん復活を信じる言葉が私には重かった。また不用意な発言で怒らせたくない。
私は「そうですね」と答えながらも、喉に出かかったギザギザする言葉を必死で飲み込んだ。
「ごめん、テルさん。もうジミーさんは駄目みたい。奇跡は起こらなさそうだよ」
テルさんとの電話を終えると、私は最後に撮った写真をそっと撫でた。
泣き顔の私がジミーさんを後ろからハグしている写真。写真の中のジミーさんは好好爺然とした笑顔をされ、すっかり老成していた。
病室でジミーさんはやはり遠くを見つめているのだろうか。私はロックミュージシャンの冠を下ろしたジミーさんの余生に思いを馳せた。
すると、何故か夜風に乗って、歌が聞こえてきた。
しかも、それはIslandの“Open your heart”のアカペラバージョン。正男さんが遠く離れた沖縄の「壁の向こう」で無意識に口ずさんでいるのだろうか、私の心が幻聴まで聴こえるくらい病んできたのだろうか。未だに謎だが、その歌声は優しく、耳と心に染み透っていった。
と、同時に。また、文を書きたい。自分の五感で見聞きし、知っていったコザの街やオキナワンロックを書きたい衝動に駆られた。
今度は中途半端に終わらせたくない。それに私の言葉は私のものだ。今度は慎重にいくし、以前より無鉄砲はできない。けれど、私にしか書けないものがある。例えそれが人から趣味の延長と謗られても。
私はホームページビルダーを開き、また文を書き始めた。
その夜、私は夢を見た。私の知らない。70年代、眠らない街だった頃のゲート通りをうろついていたら、道路を隔てて向かい側の道を紫のメンバーが歩いているそんな夢。
夢の中の私は紫のメンバーに必死で手を振った。先頭を行くジョージさんとチビさんは、一瞥して手を振るものの、そのままスタスタと歩いていった。
その後を行く清正さんと下地さんは私の存在に気づくと手を振り、こっちへおいでと手招きしてくださった。しかし、信号はなかなか青にならない。清正さんと下地さんは私と先に進んでいくジョージさんとチビさんを交互に見ながらゆっくりとチビさん達の歩く方向へ進んでいった。
なかなか青にならない信号と遠ざかるメンバーに泣きそうになっていると、私を呼ぶ声がした。
最後尾を歩いていた俊雄さんと正男さんが立ち止まり、大きく手を振っていた。しかも、正男さんはガードレールから身を乗り出して手招きしている。
嬉しさに私は何度もお辞儀していたら、俊雄さんは私のそんな姿が面白いのか笑いを堪えていた。
信号が青になった。先を進むジョージさんとチビさん、振り返りながらも歩いていく下地さんと清正さんに構わず、城間兄弟は道の向こう側で待っておられた。
「今、来ますね!」
大きく駆け出したところで目を覚ました。夜風に乗って聴こえた歌声といい、この奇妙な夢は嫌に印象に残っていた。やり残したことへの未練と罪悪感が夢に出てきたのかもしれない。
そして、俊雄さんにきちんと謝りたかった。途中で投げ出したのは事実だ。謝っても許されないかもしれないけれど、それでも謝らないよりはいいと思い、仕事が終わり、家に帰るとすぐに私は城間家に電話した。
電話には俊雄さんが出られた。
そのハスキーな声とぽそぽそした話し方を聞くと、心がだんだん熱を帯びてきた。好きという感情がまた火を点し始めたのだ。
私は砂利が敷き詰められていくような喉を振り絞るようにサイト休止の非礼とサイト再開を告げた。
俊雄さんは黙って、途切れ途切れの私の言葉を聞いていた。呆れられたかもしれない。何を今更?と詰られるかもしれない。
長い沈黙が一分程続いた後、俊雄さんは口を開かれた。
「何を気に病んでるの。あんたがそう言ってくれるだけで嬉しい。ありがたいよ」
瞬間、涙が溢れた。短い間とはいえ、大見得を切ったのにも関わらずサイトを私の都合で休止したのは事実だ。なのに、俊雄さんは変わらずに接してくださった。見えない砂利は喉と口の中まで侵食し、ありがとうが言いたいのに言えない。照れと恥ずかしさと嬉しさで熱い頬に塩辛い涙がやけにしみた。
「ただ……いま」
やっと言えたのはこの一言だった。
俊雄さんはそっと呟かれた。
「おかえり。また宜しくね」
その言葉を聞いて思った。私一人のできることは限られているけれど、できる限りのことをしようと。
落ち着いた私はしばらく俊雄さんと近況報告をしあった。しかし、正男さんのことを尋ねると、俊雄さんの声のトーンは下がり、まるで歯に物が挟まったような口調で返された。
「正男……。もう、帰ってきてるよ。あなたの手紙にかなりショックを受けたみたい」
私は8月の終わりにポストに投函した手紙を思い出した。正男さんには苦言をしたためるはずが、だんだんと怒りを覚え、かなりひどいことを書いたからだ。
ああ、もう正男さんとは仲良くなれないなと思いながら私は自分のしでかしたことの取り返しのつかなさを今更ながら嘆いた。
(オキナワンロックドリフターvol.47へ続く……)
文責・コサイミキ
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