オキナワンロックドリフターvol.112

残りの夏休みも聖歌隊の練習や大学主催のキャンプ等に参加して有意義に過ごした。
しかし、相変わらず貧乏だった。
バイトが見つからないまま後期に入り、かつかつの生活を送った。そんな矢先に我が家に異変が起きた。祖父がアルツハイマー症候群を発症。徘徊と汚言が増えた祖父にはらはらしながら毎日を過ごし、ストレスと祖父の徘徊からくる不安と不眠から勉強に支障をきたしはじめたことでイライラし、祖父と取っ組み合いの大喧嘩をして祖母からきつく詰られた。
さらにそんな中、大学の必修科目としてボランティア体験実習があり、私は別の学科の子と組み、老人介護施設『青風苑』のボランティアに行くことになった。時を同じくしてデイケアに行くことになった祖父の姿と施設のお年寄りが重なり、正直、かなりつらい実習だった。
掃除は苦にならないがお年寄りのケアとなると心折れることばかりで、お年寄りに好かれる実習パートナーと逆に私はやたらお年寄りに詰られ、単位だからと我慢したが実習が終わり、家に帰ると寝込むことが増えた。
さらに、悪いことは続くもので、ケアしていたお年寄りの言うことが聞こえずに何度も聞き返したら、馬鹿にされたと思ったのかお茶をかけられ、その日は、色んな感情が混濁した状態でうち震え眠れなかった。
ボランティアを通して学んだことは私には介護職は絶対無理ということだった。我ながら心が冷たいが、悲しいくらい私は子どもと動物と年寄りが苦手なのだと痛感した。
毎週金曜日の午後からの4時間のボランティア実習は憂鬱だったが単位の為だと歯を食いしばって耐えた。そして最終日、スタッフの方にお礼と挨拶を終えて帰り支度をしていたら、とある男性看護士さんに「コサイさんっ!」と、声をかけられた。
すらりとした体と眼鏡が似合う優しい面差しがぺ・ヨンジュンに似ていたからか、実習パートナーはその看護士さんを見ては「あの人、ヨン様に似てるよね」と熱っぽい視線を送っていた。
そんな『青風苑のヨン様』が何故私に声をかけるのだろう?私は首を傾げた。
「前から気になっていたけど、コサイさんって小学6年の時に一緒のクラスだったコサイさんでしょ?久しぶり!」
『青風苑のヨン様』の名札を見ると、「西内」と書かれていた。あ、思い出した。
「え。まさか。西内くん?」
記憶の中の西内くんは小柄で小猿のような顔立ちのすばしっこい男の子だったので見違えるようにハンサムになった西内くんに驚いた。
西内くんは懐かしそうに目を細めて言った。
「ここでコサイさんと会えるとは思わんだった」
西内くんのその言葉を皮切りに、私たちはお互いの近況と小学校時代の話をした。
また過去のドブ歴史話になり恐縮だが、小学校6年の頃の担任は、金八先生や熱中時代の北野先生になりたがり、熱血と傍若無人を履き違え、クラスを自分の王国のようにした、まるでカルトの教祖みたいな教師だった。
さらに、この担任により、歪んだルールが決められ、クラス内に席順を使った階級制を作り、前の席が上流階級、後ろの席に行くほど下の階級で、担任のお気に入りになれなかった西内くんと私は最下層の階級に入れられていて、上流階級の子たちから侮蔑され、時には暴力をふるわれた。
西内くんは整った顔を歪め、「6年の頃のクラス最悪やったね!あの担任今でも嫌いやし、前の席で偉そうにしてた奴らは許せんもん」と毒づいたので、私もと同意し、担任と嫌いだったクラスメートの悪口大会で盛り上がってしまった。
すると、西内くんはまるでかつての戦友を見るような目で私をじっと見つめ、ぽつんと呟いた。
「でも、コサイさんは強かったね。あいつらに立ち向かったやもん。偉かよ」

え?記憶にありませんが。
フラッシュバック覚悟で記憶の糸を辿った。
そういえば、上流階級の連中の中で特に担任のお気に入りだった外面はいいものの、中身は陰険だったクラスメートのいじめに耐えかねて、そいつの顔を殴ったのを思い出した。やり返されてリンチ紛いの仕打ちを受けたが。
「それにコサイさんは社会人になって大学入ったんやろ?すごかよ!」
そうか、西内くんはそういう風に見てくれていたのか。
ふと見ると、西内くんの左手に指輪が光っていた。
「結婚されたんだね。おめでとう」
私がそういうと西内くんははにかんだ笑顔を浮かべ、「去年結婚したと。職場結婚やけど」と返した。
「幸せそうで何よりだよ、よかったね」
私たちは握手を交わし、手を振りあって別れた。
絶対に福祉関連の職に就くことはないから、道で偶然会わない限り、西内くんにまた会うことはないだろう。
しかし、孤独だと思っていた小学校時代に陰ながらであり、心配してくれていた同級生がいたことが知れたのは嬉しかった。どこかで誰かが見ていてくれたのだ。
家に帰ると、過去を引っ張りだしたせいかフラッシュバックに苦しんだが、それでも嬉しい再会があったからか、ダメージは以前よりは少なかった。
この出来事を機に、少しずつだが嬉しいことが増えた。
授業の帰りにお茶しようと誘ってくれる友人が少しずつ増えたことや授業を通して、また親身になってくださる教授と出会えたことだ。
哲学を担当される廣瀬教授と、日本語文章表現法を担当される金井教授だ。

「お前は誰やねん、自分、何者なんか?」
廣瀬教授の歯切れいい河内弁で展開される哲学の講義は面白く、最前列で食い入るように聞いていたら、廣瀬教授に声をかけられた。
「コサイくん、いつも俺の講義を楽しそうに聞いてくれてありがとうね」
そんなにインパクトあったのかと思ったが、これを機に廣瀬教授と話す機会が増えた。
廣瀬教授は「熊本はゆっくり茶あしばく習慣ないんかなあ。ええ喫茶店がない」とぼやかれたので、私は「異議あり!」と知っている純喫茶をいくつかリストアップして教授にプレゼンテーションした。
すると、「食いもんばかりのプレゼンやな。まあ、でも参考になったわ。おおきに、コサイくん」と感謝された。その後、廣瀬教授は私が勧める喫茶店に行き、プレゼンした5軒のうち2軒は気に入られたようだ。
もうひとりの教授、金井教授は日本語文章表現法の授業から「あ、この人の音楽の趣味はいい」という印象だった。金井教授は、好きな曲をひとつチョイスしてその曲の作られた背景や歌詞などを分析して論文を書こうという課題を出されたのだが、例文としてプリントアウトして配布されたのが音楽系冊子に投稿し、掲載されたという、GAROの『学生街の喫茶店』の評論だった。この曲はヒットしたものの、当初のGAROの音楽性と違い、また、この曲が、マーク、トミー、ボーカルの3名の人生を翻弄させたのは知っていたが、知られざるエピソードがきちんとした参考文献を使われて書かれ、見事な音楽評論となっていた。
皆が音楽評論に四苦八苦する中、私は金井教授の研究室を訪れ、質問した。
「金井教授、曲や歌詞を作った本人にインタビューしてそれを論文に掲載するのはできますでしょうか?」
金井教授は目を丸くし、呆気にとられながらも答えてくださった。
「いいよ。作った本人の生の声はちゃんとしたエビデンスだから。でも、誰にインタビューするの?なんで君はそんな伝があるの?」
私は答えとして持参したIslandのセカンドアルバム"Precious time"をかざした。
「元紫の城間俊雄・正男兄弟です」
金井教授は紫をご存知だったようで目を白黒させた。以来、金井教授と70年代ロックや60年代グループサウンズの話をする機会が増えていった。
論文は2回リライトをし、3回目で受け取って戴けた。次回は、大学時代に提出した、Islandの『少年の日』の論文を載せようと思う。

(オキナワンロックドリフターvol.113へ続く……)

(文責・コサイミキ)

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