信頼は「学び」の母である

そんなことはすでに知っていたはずなんです。何をかって、タイトルに掲げたことです。信頼は「学び」の母。

いつ、どこで気がついたのか...と、その前に、今回の話の輪郭を提示してきましょう。

今朝、三川屋幾朗さんの音声配信に出させていただきました。テーマはプレゼンテーション。ですが、私はプレゼンに関してはズブの素人。素人の私がプロフェッショナルの幾朗さんから学ばせていただいた、という話。

プレゼンの「学び」から出発して、いったい何を学ぶことができたのかというのが、今回の記事のテーマ。私はこれまで学んだつもりになっていました、という話。信頼が「学び」の母であることを、本当の意味で学ばせてもらったという話です。


ここから先はしばらく、私の自慢話になります。お目汚しでしょうが、しばらくお付き合いくださいませ。


私は「学ぶ」ことは「信頼すること」であることを、すでに知っていました。知ってはいたけど、学んでいなかった。「知ること」は「学ぶ」ことではないんです。

どこで知ったのかというと、ここです。

こちらの記事はヘレン・ケラーの「奇跡」がテーマです。どなたもご存じの、ヘレンが言葉を発見した瞬間のお話です。奇跡の瞬間、ヘレンは言葉を知った。発見した。いえ、創造した。このヘレンの創造は、サリバン先生への信頼から生まれたという話。

創造は学びの結果です。創造は学びの結果であるということを、ヘレン・ケラーを通じて学びました。

...って、学んだのでは? そう、学んだのですけどね。大切な部分が抜け落ちていました。


さて、ここからが自慢話の本番です。笑

私は小さい頃から成績優秀でした。ギフテッドの域に達するほどではないけれど、まあ、それなりに。どの程度かというと、人間から直接に教わったことがない程度には。

私は虐待サバイバーだと言っていいと思います。虐待と言ってもネグレクトの類いですが。お勉強ができたのは、そこが逃げ場だったから。ずっと家庭にもどこにも居場所がなかった私にとって、本は逃避場所でした。

好みは、物語より理論の方。理論書と言っても、小学生の頃は事典です。家に学研の学習百科事典全12巻だったか13巻だったかがありまして、中学校くらいまでの学習内容が網羅されているような事典だったのですが、それが小学3、4年生のころにはほとんど頭の中に入っていました。子ども部屋に監禁されていたような状態の中で、事典を読んでいると保護者も満足していましたから、自然とそうなりました。

そうなってしまうと、学校へ行っても教わることなんて何もないわけです。教師が授業することなんて、先に知っているんですから。勉強に関しては。勉強以外のことに関しても、大人はろくなことは教えません。自分たちに都合がいいことを、「オマエたちのため」といって押しつけるだけ。保護者がそうだったし、教師も少数の例外を除けばそうです。

で、結論をしたのだと思います。人間は学ぶに値しない。ただし、人間の創作物は学ぶに値する。なぜなら歴史の洗練を受けているから。

そんなこんなで、大学受験まで突破することができました。結構、死に物狂いだったようです。「ようです」というのは、私自身にはそういう自覚がなかったから。後年、同窓会などで当時の担任や同級生から言われるので、そうなのかな、と。

この「生き方」は、大学受験を突破したところで破綻をします。いっちょ前に、恋愛なんかしてしまったからです。でもね、人間は学ぶに値しないなんて思ってしまっている男が、いくら恋をしたからといって、まともに愛情の回路なんか回せるわけがありません。これは後になって気がついたことですが、人間は愛情の回路の回し方すらも学ぶんです。「愛」自体はあるんですけどね。「回し方」は学ばないといけない。下手な回し方をすると、愛は変質して憎悪になります。

破綻した後は、またしても逃げました。今度は山へ。

私の「学び」が本格的に始まったのは30歳の頃からです。20代の頃は、山と都会とを行き来して、半ば山へ逃げ、半ば都会で「人間らしくw」あろうと中途半端にもがいていましたが、1995年に阪神大震災があって、復興のための諸々の仕事に関わって燃え尽き症候群になって、翌年から本格的に山へ逃げました。山小屋で働いたり、樵をやったりしました。

樵って、殺生が仕事です。

もっとも、最初はそうは思っていませんでした。木が植物で生物だということは知っていたけれど、生きているとは識りませんでした。「知る」と「識る」は違うんです。頭で知識として「知って」いても「識って」いることにはなりません。

上の三川屋幾朗さんの記事で紹介してもらったプレゼンにも盛り込みましたが、それを「識った」のは400年の杉の木を伐り倒す場面に立ち会わせたもらったときのこと。師匠に当たる樵さんが、いざ伐ろうとして、足が震え、手が止って動けなくなったのを見たとき。木が生きていると身体が識っているからこそ、そんなことが起きる。まして400年の木ともなると、畏怖を感じないではいられない。

このことを皮切りに、「生きている」ということを木から学び、動物から学び始めました。縁あって我が家の一員となった犬たちに、愛情を注いでいたつもりが虐待になってしまっていたことも学ばせてもらった。これまた縁あって一緒になった妻にも、モラハラをしてしまっていることに気がつくのですが、これはまだまだ後の話です。

そんなこんながあって、山や森の世界から人間の中へ戻ることができるようになって、そのタイミングで発見したのがヘレン・ケラーのことです。

「人間は学ぶに値しない」から始まり、「自然は学ぶに値する」を経て、「人間において信頼は学びの母である」ということを知るに至った。人間不信から出発した私が、自分なりの人間性善説理論を確立するに至ったことで、十分な学びは得た、あとは実践だ、と思ってしまったわけです。


実践は、それなりに成果は上がっています。特に、人間不信の人に対して。

こちらは、私なりの実践の記録です。人間性善説理論を「説明」することは、昔の私と同じように人間不信で苦しんでいる人には効用があるようです。なぜ人間不信になってしまうかが、それなりには伝わるらしい。


先日、起業プランにまとめてプレゼンをしたのは、私なりの人間性善説理論のささやかな実践をもとに、理論を普遍化するためのモデルとして考案したものです。骨子だけをザックリ言うと、人間は学びたい生き物なのに、その学びが歪んでいるからおかしくなる。なので、学びを正そう。正すことをビジネスにしよう。つきましては、支援をください、と。

ところが、縁あって私にプレゼンを指導してくださることになった幾朗さんから、これでもかとダメ出しを食らうハメになりました。

幾朗さん曰く、「説明ダメ」

「説明」ではないことが要点です。説明そのものは、説明としては悪くない。そうでなくて、「プレゼンは説明ではない」というのです。

プレゼンは、気持ちを伝えること。心を伝えること。もっと言うと、相手のアタマをハッキングすることです。こちらの意欲を相手の心に移植することだと。

そのように言われて、私は最初は反発をしていました。

「意欲なんて、説明が通じれば自ずと湧き上がってくるだろう? 湧き上がってこないようなら相手が鈍いだけのことだから、こちらとしてもそんな相手にアタマを下げて支援を請いたくない」

ま、理屈としては通っていると思いますが、なんとも傲慢な理屈です。

指導を受けたのは、「言葉を削れ!」です。私としては「そんなことをしたら、説明が通じなくなる」。そりゃ、そうですよね。

この齟齬をどのように解消していったのかは、ここでは割愛します。是非とも幾朗さんとの対話を聞いてみてください。30分弱ありますが、文章で「説明」するより、聞いていただいたほうがずっとよく伝わります。

もういちど、リンクを貼っておきます。


だらだらと長い文章を、そろそろ締めましょう。

私は、私なりの人間性善説理論を作り、信頼が「学び」の母であることを理論としては理解していました。理論として理解しているということは、それを経験として学んだわけではない、ということです。

このことは人間性善説理論についても言えます。理論では理解したし、実践も始めた。けれど、経験をしていません。「学び」を経験するということは「学び」をギフトとして受け取るということなんです。

私は木や動物や自然からは、「学び」を自らの経験として受け取ってきました。このことは胸を張って言うことができる。それから独自に理論を構築したことも、密やかな自信になっています。実践経験もささやかならがあります。

ところが、人間から「学び」を受け取った経験は相変わらずないままでした。なのに、なぜか、そのことに気がつかずにいました。理論で「人間は信頼に値する」と理解したのなら、人間から学びを受け取っても良さそうなものなのに、それを拒否している自分があることに気がつきました。

「プレゼンは説明で十分」と思い込みから生まれるのは、それはとりもなおさず「私の正しい理論に耳を傾けろ!」という傲慢な押しつけです。「私は正しい、オマエは間違えている」という態度です。そんなことで相手が耳を傾けてくれるはずがないというのは、私自身が理論で述べていたことでした。

なのに、理論として説明しようとしてしまう。「理論は理論だけでは足らない」というのが私の理論なのですが、実際にその通りであり、その理論を作りあげた私自身も例外ではない。なのに無意識のうちに、私自身は例外だと思っていたわけです。

「愚」を名乗るに相応しいとは、このことですね。笑

理論を構築するのに言葉は必要。これは間違いありません。実践にだって言葉は必要です。でも、使い方が違います。実践においては言葉は、徹底してツールとして使わなければならない。過剰に用いると言葉に呑まて押しつけになり、相手に伝わらなくなります。

言葉は、私とあなたの間に置いて、ギフトとして使うのが「伝える」ときの正しい使い方。このことに、私自身も人間から「学び」をギフトされないと気がつかないという、当たり前といえばごく当たり前の話です。

これでようやく、私が小さい頃に下した「人間は学ぶに値しない」という結論を覆すことが出来たように思います。

三川屋幾朗さん、本当にありがとうございました。

※ 当記事も言葉が多過ぎです。とりあえずアップしますが、後ほど整理をするつもりです。

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