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歴史を愉しもう ♬

ぜひ、歴史を愉(たの)しんでいただきたい。

なぜかというと、「伝えたいこと」が伝わるには歴史を愉しんでもらう必要があるから。

はなはだ手前勝手な動機だったりしますが、書き手としは読んでもらえれば上々、さらに愉しんでもらえたなら……♬


で、提唱してみたい方法があります。それは

想像の次元を上げ下げする

といういうもの。


・たとえば「空間の歪み」をイメージする

名前は誰でも知っているのに中身はわからないものはたくさんあります。その代表選手の一つがアインシュタインの相対性理論。

特殊相対性理論から導き出された「E=mc2」なんて、なぜそうなるのかを理解するのは大変だけど、この方程式の意味するところを覚えるのは難しくない。理解の大変さと、意味するところのシンプルさのギャップが相対性理論のSFチックな魅力だったりします。

アインシュタインにはもうひとつ、一般相対性理論というものもある。“特殊”と“一般”がセットになっていて(言葉的には)覚えやすいのですが、では、何が特殊で何が一般化というと、よく勉強してみないとわかりません。

ところが、伝え方によっては、よく勉強してみないとわからないはずのことがわかった気分(あくまで気分!)にさせてもらえることがあります。


(画像クリックで引用元へ跳びます)

上の画像は「(三次元)空間の歪み」をわかった気分にさせてくれるもの。難易を問わず、相対性理論の解説には必ず登場してきますからご覧になった覚えがある方も多いはず。


太陽の質量が三次元空間を歪ませて空間が四次元になる。空間の歪みによって引力が生じて、太陽(の質量)は地球を捉えいる。地球は四次元空間を慣性の法則に従って直進しているに過ぎないのだけれども、三次元空間までしかイメージすることができないぼくたちには、円運動をしているように見える。

四次元空間をイメージできないぼくたち人間ですが、でも、伝え方によっては(四次元空間を)わかった気分にさせてもらえます。

三次元を二次元的に描写して(すなわち想像の次元を一つ下げて)、空間の歪みを三次元的に表現する。そうしてもらうと、空間が歪むと次元が一つ増えるということを視覚的に理解することができて、イメージできないはずの四次元空間が何となくわかったような気分になることができます。



・知ることは愉悦である!

まず、「愉悦」という表現です。

辞書を見ると「たのしみよろこぶこと」と書いています。まあ、そうなんでしょうが、この説明はなんとも辞書的というか、わかったようでわからない。気分でいうと、わかったような気分にはしてくれません。

そこで、勝手に次のように定義してみます。あくまで当テキスト内のローカルな定義です。

 愉悦とは本能的にたのしみよろこぶことである。

と定義してみれば、食べることは愉悦です。
異性(とは限らないけど)と交わるのも愉悦。
愉悦は生存につながる愉しみであり、悦び。

人間にとって「知ること」は愉悦です。
なぜなら、人間は甚だ未熟な状態で生まれてくるからです。

最初は母親しか知らない。身体も未熟だから、それでバランスが取れている。そして、身体の成長とともに心が成長していく。心の成長は〈知ること』を糧にして実現されていく。

してみれば、心にとって〈知ること〉は食べることと同じです。身体は食物を取り込むことで成長する。心は〈知ること〉によって成長する。体が成長して行動範囲が広がるのと同じように、〈知ること〉によって想像力の範囲が広がる。

「想像の次元の上げ下げ」は、言語能力と関連しています。言語能力を習得してものごとを抽象化できるようになることと、想像の次元を上げることができるようになることとは間には、深い関連がある。


ただ、想像の次元の上げ下げは、たんなる抽象化ではありません。感覚の高次元化とでもいうべきもの。

 リンゴとはどういうものかを知る。
 ミカンとは何かを知る。
 そして、果物というものを知る。

人間は、リンゴもミカンも果物も、生き生きとしてイメージすることができます。果物なんてものは実際には存在しないにもかかわらず。

成長とともに感覚器官が発達して「知ること」の情報が多くなり、言葉を覚えて他者とコミュニケーションができるようになって、さらには抽象化能力を獲得して想像の翼を広げるようになる。

また、想像は、試行錯誤を要しはするけれども、現実において実現することもできる。この「実現」によって、人間は現在の地位(生態系の頂点)を獲得した。

どれもこれも、人間が〈生きる〉ことにつながる本能的な愉悦です。



・歴史を愉悦する

歴史を人間が生きていくことにつながるように愉しむ方法が「想像の次元の上げ下げ」です。

それは、「歴史を暗記」することとはまったく別のこと。いくら歴史を暗記してみたところで、悦びを伴う「わかった気分」にはなれません(テストで高得点が取れれば、それはそれで別の喜びはありますが...)。


では、歴史において「想像の次元を上げ下げする」とは、どういうことか?

実は、前回の『伝えたいこと』では、「想像の次元を上げる」ことをやっています。


 自分に自信を持とう。
 自己肯定感を高めよう。

これらの言葉は多くの人に響きます。
「響く」ということは、生き生きとして(あるいは切実なものとして)感じられるということです。

個人のレベルで感じられるということがあるから、社会や人類のレベルへと格上げしても、「感じられる」ことは引き継がれる。

人間は二次元と三次元を感じることができる。ゆえに、「感じられる」ことを上手く引き継がせれば、三次元と四次元を「感じられる気分」にすることができる。

なぜそんなことができるのかはよくわからないけれど、どうやらできるらしい。


歴史は、宇宙論に準えるならば、四次元空間のようなものでしょう。人間は直接感覚することはできない。理解には言語での記述が必要だけれど、記述を覚えただけでは「わかった気分」「感じられる気分」にならない。だったら、人間が感じられる次元へ、一端、想像を格下げしてみればいい。格下げをしてみて感じられたのなら、今度は想像の次元を上げてみる。

歴史の格下げとは、具体的には、歴史を一個の人間の人生だと想像してみることでしょう。人生というならば、生き生きとした想像が及ぶ。そこでの想像の〈生き生き〉をそのままに格上げできれば、歴史を愉悦とすることができる――はずです。



ということですが、続きは次回へと持ち越したいと思います。タイトルは

 『ネアンデルタール人が感じるリア充』

というのを予定していますが、変更してしまうかもしれません。

ぼくたち人類の歴史を一個の人生に準えてみれば、他の者(ネアンデルタール人)にはいわゆる「リア充」に感じられてしまうのではないか、と想像してみようという内容(の予定)です。

感じるままに。