沖縄のこと。
昨日の現代ビジネスの記事。
細かい言い回しが気になるのがぼくの悪い癖なんですが。
「いまだに知らない」は現実としては正しけれど、心理現象としては正確ではない。「今に至っても知ろうとしない」、というべきこと。
沖縄問題とは、軍事・安全保障の問題以上に、人権・安全保障の問題である。また、それは沖縄独自の問題というよりも、日米両国、特に日本の問題である。
現在の米海兵隊の普天間基地の辺野古移設を強硬に推し進める日本政府の姿勢はあまりにも理不尽かつ不条理である。
沖縄へのアメリカ合衆国と日本国政府の仕打ちを見ていると、民主主義なんて影の支配者の存在をカモフラージュするために隠蔽装置に過ぎないなんて、「陰謀論」を唱えたくなるくらい。
沖縄県民は、幾度、辺野古基地新設にノーの意思表示をしてきたのか。なのに、基地の建設は強行され、既成事実を背景に幾度も選挙で問い直される。イエスと言うまで問い続けるというなら、拷問に等しい。
そして、本土の「日本国民」は、自身に都合のいい視線でしか眺めない。「東京の視点」という言い方をしてもいいと思うけれど、これは原発問題などにも通底する姿勢ですね。
人の痛みは3年でも我慢できるというけれど、まさにそれ。
ぼくが暮らしている富士北麓地域は、数少ない本土における「基地負担」がある地域です。
上に名前の見える武川勉さんて、恩賜林組合の組合長です。
山梨県の山林の大部分は、他県とは状況がことなって“恩賜林”と言われる県有林なんです。こうなっているのには歴史的な経緯があって、“恩賜林”という名称がその由来を示していたりするわけですが、その恩賜林も歴史的な事情から何カ所にも分割されていて、各々に「組合」がある。
さらに富士北麓地域の一部には特殊事情が加わって、恩賜林が演習地になっている。つまり、「お金が下りてくる」わけです。
あくまで聞くところによると、ですが、富士吉田界隈の政治の世界では、最終ゴールは市長ではなく恩賜林組合長だと言われます。官僚の世界の天下りのようなものなのでしょうけれど、恩賜林組合長は格別に「美味しい」らしい。資金が潤沢。といって、山林ではやることもあまりないし。
富士吉田や鳴沢村あたりが合併しないでいられるのもの、恩賜林=演習地のおかげだと言われていますね。財源があるから、寄り合わなくても困らない。
その代償として、住民は演習の騒音を受忍しなければならない。といって、富士山麓は広いですから。ときおり家屋が響くくらいの衝撃が届くことはありますが、生活に支障があるというレベルではない。
なので、米軍の訓練を現地協が了承したなんて、ニュースにもならない。現地協からの周知もないけど、気にも留めていない。
でも、かりにこれが、生活を脅かすものだったとしたら...
沖縄では、生活を脅かすものになっているんですよね。だから、反対運動が起きる。かつては当地域でも反対運動はあったらしいですが。
そして、当地でも見られるような地方の政治の構造がきっとあるに違いない。それも、おそらくはもっと強力な形で。
去年の今頃、こんな映画を見ました。
ちょうど、昨年の今日に感想を書いていますね。
藩の財源問題です。薩摩、すなわち鹿児島から江戸へ軍隊を差し向けるだけのお金がどこにあったのか。幕末の日本は、すでに独自に貨幣経済を発展させていました。薩長の軍勢は、江戸に進撃するの経路の周辺の住民から物資を徴発しながら進んだわけではない。もちろん、飲まず食わずで行けるはずもない。
薩摩にはお金があった。
琉球という「財布」があった。
「現代の日本」が明治維新から始まっているという認識は定説だと思いますが、だとするならば、現代日本は沖縄に歴史的にも借りがある。借りを返すどころか、未だに奪い続けている。
そんな事実は、大方の日本人には見たくないのでしょう。
現実に、見ていません。
もっとも、だからといって、沖縄を応援しようというのではないけれど。ここからだと、具体的な動きはどうしてもイデオロギーに絡め取られてしまいます。気持ちだけにならざるをえないのが、いささか歯がゆい。
このまま、日本が沖縄のアイデンティティを否定し続けると、どうなるか。ふつうに考えるなら、離反していく方向へと進むでしょう。かつてあれほど熱望した日本復帰なのに、裏切られ続けている沖縄。いえ、琉球というべきか。
そうなるのは寂しいけれど、そういう選択を否定するわけにはいかないと思っています。
来る9月30日は知事選挙です。
翁長知事の後が、どのように続いていくのか。
せめて関心だけは寄せていきたいと思っています。
感じるままに。