見出し画像

その2~「自分の頭で」を考える

その1とその2の順番が逆になったような気がしますが...。


† 自分の心に訴えかける

自分の頭で考える。

言葉にするのは簡単ですが、やってみようと思うとなかなか難しいことです。誰もが「考える」のは「頭」でだと思っていますから、どうしても

 「考えること」=「自分の頭で」

ということにアタマからなってしまいます。

たとえば、計算問題を出題されて、暗算でも筆算でもいいが、自力で解答を求めてみるとしましょう。計算機を使うと「自分の頭で」ではないことは言うまでもありません。では、計算機を使わなければ「自分の頭で」になるのか? ということです。


――というふうに疑問を投げかけて、もし、あなたが

 そんなの「自分の頭で」に決まっているじゃないか!

といったふうに、「決まっている」と思われるならば、この先を読み進めていただくのは時間と労力の無駄というものです。せっかくのご縁なのに残念ですが、どこか次へ、進んでいっていただきたいと思います。

逆に、上の疑問に少しでも引っかかりを覚えるなら、あなたはもうすでに「自分の頭で考える」ということの入口に立っています。

「自分で計算している」のに、なぜ「自分の頭で」ではないのか? 愚慫とかいうおっさんはいったい何を言おうとしているのか?

「その1」でぼくはこんなふうに書きました。

「自分の頭で考える」というのは、原因や推移を際立たせて、快感や不快感あるいは安心や不満を敢えて感じてみること

ここは単に言葉の使い方の問題ではあります。

自分の頭で考えて、結果が出たら終わり――これだって、「自分の言葉で考える」という言葉を当てはめて間違いではない。一般的には間違いではないけれども、ここ(『自分の頭で考えるお金の話』はマガジンにしました)に限っては、その意味では不正解にしたい。

では、正解は?

自分の頭で考えた結果を、自分の心に訴えかけてみる

自身の心に訴えかけるところまで含めて、「自分の頭で」ということにしたいと思うのです。


それだったら、はじめから「自分の頭と心で考える」とすればいいではないのか? ――はい、まったくその通りです。でも、理由はあります。最後に明かします。


† お金は感情情報である

自分の頭で考えた結果を自分の心に訴えかけるということは、自分自身の感情に訴えかけるということに他なりません。考えた答えを心に訴えかけてみると、感情が出力されてくる。

自分の頭で考えて、答えを出力するのは知性。
答え(情報)を心に訴えかけて、感情が出力されてくるのは感性です。

そうして出力されてきた感情を、知性の働きの方向性を変えてモニターしてみれば、理性になります。“理性的”というと感情をコントロールしようとするといった意味になりがちですが、コントロールするのにはまずモニターしなければなりません。

情報という観点で考えるなら、知性は情報の操作。理性は観察です。感情もまた、情報ということができるからです。


お金もまた情報です。
では、お金はどこの作用する情報なのか?

お金は心に直接訴えかけてくるもの、つまり感情を惹起させる感情情報です。

というと、反撥や違和感を覚える方もおられるでしょう。誰もがお金のことについては日々考えないではいられないから。だれもがお金のことでは悩みます。


でも、それは「お金を稼ぐこと」について考えているのであって、「お金のこと」を考えているのではないと言えます。

が、そう言ってしまうと、さらなる反撥も出てくるでしょう。

そんな役に立たない哲学(屁理屈)に付き合っているヒマはない!!


もし、こうした答えが出て来るならば、ぼくはそれを当テキストの最初に言及した「決まっている」と同じ反応だと申し上げなければなりません。そして、そのような「決まっている」を引き出すことが、お金が直接心に訴えかける感情情報であることの証左でもある、と申し添えることになります。


† お金は知性の働きを阻害する?

お金が感情情報であるということは、見方を変えれば知性の働きを阻害するということでもあります。


ぜひ、ご自分の頭で、考えていただきたい。理性を働かせて、自身の感情をモニターしてもらいたいのです。

ぼくたちは、ほとんどの場合、お金についての(誰かがどこかで考えた)結果を受け取っているだけではないのか?

だとするならば、それはお金について「自分の頭で」考えることはしていないということです。感情に訴えるということをしてはいます。お金は常に誰しもにとって欲望(感情)の対象ですから、感情は惹起されています。感情に基づいて「お金が欲しい」と考え、「お金を稼ごう」と思って行動を始める。ここからの先の思考と行動は「自分の頭で」になるかもしれません。


知性を働かせて「~について自分の頭で考える」ためには、多くの情報を必要とします。

たとえば「お金を稼ぐことについて考える」ならば、自分にどのようなスキルがあって、どれだけの時間があって、どこに住んでいて、どこに働き口があって、自分は何歳で、性別は男か女か、既婚か未婚か、とにかくいろいろなことを考え合わせなければなりません。

数多くの要素を視野に入れて、考え合わせて、それで初めて知性を働かせているといえる。計算の手順を覚えて、手順どうりの計算を遂行するだけでは知性を働かせているとまではいいません。


ところでぼくは、自分のnoteはどれも無料で公開すると決めています。ぼくとてもお金は欲しいですから、当初は有料で書くことも視野に入れていました。けれど、いろいろと考え合わせて、有料のnoteは書かないと決めた。お金をいただかないでも、自分が書き表すことができることを全力で書いてみるということに決めました。

これは、「お金について(自分の頭で)考える」ことだと自負します。

もちろん、「お金について(自分の頭で)考える」ことは無料でnoteを公開することだけが結論ではありません。有料のnoteをアップした経験がある方、真剣に検討している方ならわかるはずですが、有料に踏み切るにはいろいろなことを考え合わせ、なおかつその結果を自分自身の心に訴えかけて決断を促さないといけない。

決断には感情が働きます。
働く感情をモニターしたうえで為すのが決断。ですから決断は、理性の作用です。

しかしながら、その決断は、別の決断(の可能性)をスポイルすることにもなります。


† 作品は誰のものか?

公開された作品は、一応は、作者の者だと決められています。

「決まっている」と書くのが自然かもしれませんが、敢えて「決められている」と書いたのは、それは法律上の権利になっていて、しかもその権利は譲り渡すこともできる。著作権といいますね。


ご自分の頭で考えてみていただきたい。

あなたの作品を見たり聞いたりした誰かが、それをあたかも我がことのように受け容れてくれたならどうか?

権利上はあなたのものであることは揺るぎません。ですが、そのことは他者があなたの作品を「我がこと」とすることを妨げるものではない。むしろ、「我がこと」としてもらえれば大きな喜びを感じるでしょう。

我がこととまではいかなくても、共感を得られれば喜びが生まれる。多くの表現者は、その喜びのために自らの表現を公表するといっていいはずです。


作品の権利者は、当然、自身の作品についての価格を「自分の頭で考える権利」を持ちます。が、そのことは、どれほど共感を覚えようとも、権利者以外の者が「自分の頭で考える」ことを妨げてしまう。

この阻害はシステマチックなものです。それこそ「決められている」だけのこと。権利者は悪意をもって「自分の頭で考える権利」を独占しているわけではないでしょう。ただ、当たり前のこととして、決められたものとして受けて入れているだけのことです。

ここがシステマチックだということは、システムに別のアクセスを設けることが可能だということで証明される。すなわち「投げ銭」です。

「投げ銭」は権利外者の権利です。「投げ銭」をする者は、作品の価格(≒価値)について自身の知性を働かせ、なおかつそのその結果を自身の心に訴えて感情を出力させ、その感情をモニターして決断を為さしめることになります。

権利者にのみ権利を認めるシステムは、権利者の善意悪意にかかわらず、権利外者の知性の働きをシステマチックに阻害してしまいます。そして、実際のところ、大部分の者は権利外者です。

それは、決められていることなのだから、それでいいのか? あるいは、決められていることだから、仕方がないのか?

それでいいのか、仕方がないのかも、考えてみるだけの価値があるとぼくは考えます。そしてこのことは権利者になるか、権利外者のままで「自分の頭で考えてみる」以外にアプローチの方法がありません。


権利者になって考えれば、結果はおそらく「それでいい」になるでしょう。これはそれこそ考えなくてもわかります。誰もがそのために努力をしているのだから。

だから、ぼくは権利外者のままで「自分の頭で考えてみる」アプローチを採用することにします。いろいろと考え合わたうえでの決断です。


† とりあえずのまとめ

ここまでで「自分の頭で考える」とした理由は明らかにできたと思います。すなわち、権利外者はシステマチックに「自分の頭で考えること」を阻害されているという現実があるという観察が、ぼくにはあるからです。

この観察を、ぼくは共有してもらいたいと願っています。すなわち「伝えたいこと」です。

ぼくのこの願いは、権利者になりたい(作品を有料で公表してお金を稼ぎたい)と願っている人とは、あるいはバッティングをするものと受け取られるかもしれません。

ですが、そのようなものではないと信じています。

作品を公表する人は、たとえ自覚はなくても、人間性善説に立っているはずです。自身の作品が伝わる可能性を信じられるということは、受け取る人間が性善だと(確信しないまでも)想定しているということ。可能性を信じることができなければ、作品の公表など無駄な努力の費えに過ぎません。

このことは何も表現作品だけに限らない。すべての仕事が同じ可能性を前提にしています。この可能性を前提にすることが、人間(を含む動物)の社会性というものです。

ところが、現代社会に生きるぼくたちは、この可能性をシステマチックに阻害されてしまっています。どうしてこんなことになっているのか、どのようにしたらこの阻害から脱出できるのか。自分の頭で考えて、伝えていきたいと思っています。

感じるままに。