ひろゆき氏は「ダメな人」のための「優しいネオリベ」なのか

雑誌『世界』で伊藤昌亮氏によるひろゆき氏についての評論が発表された。

確かにひろゆき氏は日本をオワコン扱いする。ライフハック的なものを称賛する。リベラルが守ろうとする社会的弱者を攻撃することもある。知的権威を揶揄することも多い。これらの行動の根源を「ダメな人」のための「優しいネオリベ」として捉えるのは興味深い。「今のひろゆき」が行っていることの観察の積み重ねで考えると、このような評論もありうるのかもしれない。

だが、ネットの発展と共に、長くひろゆきをウォッチしている私のような人間からすると、ひろゆき氏のある種の魅力の本質には迫れていないのではないかと思った。そこで件の記事に補足するようなかたちで、私の考えを述べてみたい。

リベラルとしてのひろゆき氏

ひろゆき氏の基本的な考え方を私は下記のように認識している。(単なる私の感想であり、特に出典があるものではない。)

「経済のグローバル化と格差拡大や、日本経済の衰退と社会保障の劣化は厳しいことだが止まらない。しかし、その中で楽をしてマトモに生きる方法は沢山ある」

ひろゆき氏はネオリベとして語られることが多い。しかし、彼はネオリベラリズムを単に肯定しているわけではない。少子化対策や教育への財政出動について促進派なのは、検索をすればすぐに出てくる。彼は市場に政府は介入すべきでないというリバタリアンやネオリベ的な立場を単純にはとらない。政府が積極的に財政出動するリベラル的立場をとっている。実際に本人も児童養護施設へのパソコン寄付事業を行っている。

ひろゆき氏が単純なネオリベではないという点で、伊藤氏のひろゆき論と私の視点は同じである。だが、私は一歩踏み込んで、ひろゆき氏のリベラルとしての側面を強調したい。

私の感想の前半、ひろゆき氏の「経済のグローバル化と格差拡大や、日本経済の衰退と社会保障の劣化は厳しいことだが止まらない」という文章は、一見するとネオリベの肯定に見えるかもしれない。しかし「厳しい」という言葉が入っていることに着目していただきたい。ひろゆき氏はネオリベ的経済が進行することには功罪があることを分かっており、ロスジェネを中心にその割を食った若年層がいることを理解している。(この層は伊藤氏が論考で述べた「ダメな人」と重なる。)

ひろゆき氏が提唱した「無敵の人」という言葉に端的にその思想が現れている。ロスジェネを中心に、ネオリベ的価値観に追い込まれた人が自暴自棄に陥り、「無敵の人」となって、無差別殺人を起こしてしまうのだという論である。長文になるが、ひろゆき氏のインタビューを引用する。

「社会的な弱者を守るために国がある」と僕は思っています。
(中略)「努力が足りなかっただけだ」と言って弱者を追い詰める風潮は、社会的になくなっていったほうがよいです。ひどい人になると、「努力しない奴は消えてしまえばいい」などということを平気で言ったりします。
 そんな見方で弱者を見てしまうと、今度は、弱者側からの報復を生むことにもつながります。いわゆる「無敵の人」と呼ばれる人たちがいます。「誰でもよかった」「周囲に腹が立った」などという理由で無差別殺人などが起こったりしますが、社会に対して怒りを持ち、這い上がることができない人たちです。
「無敵の人」を生み出さないためには、社会に居場所を作れるようにお金を使ったり、国民全員が生活の心配をしないようにする仕組みが必要です。そのために税金が使われることに対して、国民が怒りを持ってしまうのは本末転倒です。
 いつ、自分が弱者の側になるか。自分の強すぎる言動が跳ね返ってくるのか。そういう想像力を働かせたほうがいいと思うんですけどね。

https://diamond.jp/articles/-/278677
ダイヤモンド・オンライン
ひろゆきが語る「弱者にとことん優しい社会を目指す方法」

これは明確にリベラルな発言ではないだろうか。ひろゆき氏はネオリベの被害者である「無敵の人」を生まないために、リベラルな政策をとるべきだと述べているのである。それどころか、いつ自分が弱者の立場になるかわからないので、想像力を働かせるべきだとまで述べている。これはリベラリズムの代表格、ロールズの有名な「無知のベール」の話に通じる。ひろゆき氏の思想は、ネオリベよりもリベラリズムに近いのである。

それを裏付ける話として、下記の動画を紹介したい。ひろゆき氏は今のようにブレイクする前に、ニコニコ生放送で千葉大学の政治学者小林正弥教授と対談している。その中で、ひろゆき氏は様々な問いを通じて、小林氏から思想的にリベラル寄りであることを指摘されている。特に24分辺りから見てもらいたい。大金を稼いだマイケル・ジョーダンやビル・ゲイツには課税をすべきだと選択し、小林氏から明確にリベラルの考え方だと指摘されている。

つまり、ひろゆき氏自身はリベラリズムに立脚した思想を持っているが、経済が世界的にネオリベラリズムの方向に進むことは仕方がないと受け止めているのである。この「仕方がない」という諦めの部分が、ひろゆき氏を冷笑的に見せている。ひろゆき氏は不可逆的に進むネオリベ的世界の中で、どのように個人の幸福を最大化するかという点を重視しているのだ。

「楽をしてマトモに」生きる

私の感想の後半、ひろゆき氏の「楽をしてマトモに生きる方法は沢山ある」について話したい。ここも多くの人々の共感を生んでいる。ひろゆき氏にとって、楽に生きる方法は多様であり、その点は価値相対主義的である。ひろゆき氏のインタビューを引用する。

「恥ずかしい」とか「世間や周囲がどう思う」というのは意識するものですが、それと対比して「自分が幸せになるためにはどうなの?」っていうのを天秤にかけた方がいいと思うんですよね。(中略)周りがどう言おうと、自分が「これやりたい」っていう思いが強いんだったら、やった方がいいんじゃねって。本当にやりたいことや目標がある人だったら、そっちに一歩でも近づくものを選んだ方が、最終的にはゴールに行けるよねって。

https://rkb.jp/article/61480/
RKBオンライン
ひろゆきが教える「楽して生きるための1%の努力」~その4~

他人と違うことをしてもよい。自分が幸せになるために楽して生きるべきだという明快なメッセージである。ひろゆき氏は楽な生き方を肯定するゆえ、楽をせずに頑張っている人を茶化すのである。

また、ひろゆき氏はお金と幸せが無関係であることも下記のインタビューで述べている。

お金と幸せは関係ないとはいつも言っているし、お金がなかった子どもの頃からそう思っているけど。でもわからない人にはもうわからないでしょうね。
だからもうお金さえあれば幸せだと思い込んでいる人には、何を言っても仕方ないって、最近はちょっとあきらめています。

https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001470.html
サイボウズ式
「天職なんてないんじゃない?やりたい仕事より、苦じゃない仕事を選ぶくらいがちょうど良い」

衰退する日本経済の中で苦しんでいる人々にとっては大いなる福音である。ひろゆき氏は厳しいネオリベ的な世界の中でも、お金にとらわれずに楽に幸せな人生を歩むことを提案している。

ただ、ひろゆき氏の多様な生き方を肯定する価値相対主義は、彼なりの正義が土台になっている。少年革命家ゆたぼん批判に見る「マトモな人生」の肯定がそれである。この点が「自分は苦労しているがマトモだ」と思っている多くの人々に希望を与えている。ひろゆき氏の言葉が人々に届きやすくなっているのは、多様な生き方を認めつつ、日本人のマジョリティに耳障りの良い「マトモ」の甘いコーティングが彼の言葉にされているからである。

この「マトモ」批判は、伊藤氏のひろゆき論で言う「ダメな人」にも向けられる。下記の動画はひろゆき氏が2ちゃんねるの管理人時代に、2ちゃんねらーから受けた「ニュー速板にアニメスレを解禁して欲しい」という粘着的な抗議に対しての発言である。ひろゆき氏は論理的にアニメの面白さを説得できず、感情的なコメントを続けるアニメファンを批判している。

ひろゆき氏の「マトモ」の基準は、一般的な倫理を時に逸脱する。賠償金の踏み倒しや、遅刻癖など、他人に迷惑をかける行為も自身は行っている。しかし、ひろゆき氏は法に触れるようなことは避けている。その中で自分流のルールを確立し、それが「マトモ」だとアピールすることで、むしろ粋に見せているのだ。

ひろゆき氏の問題点 責任感の不在

ひろゆき氏の問題点は、その責任感のなさに尽きるであろう。ひろゆき氏はあらゆることにコミットしない。リベラリズムは大切だが、それは誰かがやってくれという態度である。ひろゆき氏は責任を回避することで発言の自由を確保している。そして、綿密なロジックで自身の安全なポジションを確立し、自由に社会批判や人生相談を行う。フランスに居を構え、あくまで頼まれたから日本で活動を行っているというポーズをとっているのもその一環だろう。掲示板は放置しており、自由で多様な価値観を尊重しつつも、その土台となる平和な言論空間を維持するという実践はしていない。

本来、リベラリズムは個人の普遍的な自由を尊びながら、公正な社会を実現するために統治者が個人に介入する理念である。リベラリズムの実践には矛盾が生まれやすく、統治者には責任が生じる。ひろゆき氏はこの責任と実践からは逃れているように見える。そのため、信条としてはリベラリズムなのに、ネオリベの論客として認識されているのではないだろうか。

ひろゆき氏が活躍する理由 リベラルを志向する人々の受け皿

結論から言えば、本来の意味でのリベラルを志向する人々の受け皿が言論空間や政党にないため、その人々の共感をリベラルなひろゆき氏が集めているのではないかというのが私の考えである。日本には自民党と反自民党が存在するだけで、そこにリベラリズムを巡る政治思想的対立が見いだせない。支持政党なしが3割を超えるのは、日本人がリベラルを志向しているが、それを体現する政党がないためではないか。

共産党は共産主義を信奉しており、当然リベラリズムではない。立憲民主党も共産党と共闘をしており、ゼロコロナを推進しようとするなど、個人の自由を重んじるリベラリズム的政党とは言い難い。リベラルとレッテルを貼られている知識人は、自由で多様な価値観を尊重するどころか、政敵や政治的に正しくない発言をする人物を見つけてはキャンセルに明け暮れている。安全保障の拡張論や、憲法改正については、発言すれば大変厳しい批判が返ってくるため、半ばタブー化されている。自由で多様な価値観を尊重するリベラリズムとは対照的である。

自民党について述べたい。小泉純一郎時代の自民党の政策は官から民へを過激に促進し、明らかにネオリベ的だったが、現在の自民党の政策は必ずしも純粋なネオリベラリズムとも言えない。公明党の意向が強いものの、給付金や幼児教育無償化など、一見リベラル的な政策も打っている。

つまり、日本ではリベラリズムの一部を保守政党である自民党が引き受けており、日本型リベラルは左翼(反自民党)に回収されてしまっている。これでは本来の意味でのリベラリズムは、有権者のニーズがあるにも関わらず、選挙で選択できず、政策にも反映されない。あるいは仕方なくリベラリズムを一部導入している自民党に投票せざるをえない。この状況が進めば、支持政党なしの割合は増え、投票率は下がり続けるだろう。

そこに登場したのがひろゆき氏である。ひろゆき氏は自由で闊達な意見を尊重する。その精神は2ちゃんねるや4chanの制作・運用に現れている。そこにはタブーはなく、自由で闊達な言論的プロレスが展開されている。そのプロレスを真に受けてしまった人が、陰謀論に飲まれていってしまうのだ。

ひろゆき氏は陰謀論を真に受けたりはしないが、それを規制することもしない。それを前提に、個人が生きやすくなるための社会とはどういうものかに思索を巡らせ、そこに到達するための論理を構築し、一定の正義を担保している。「自由が保証された言論空間」と「個人が生きやすくなるための正義」を武器に、様々な論客を論破している。自由と正義は、リベラリズムを求める人々のニーズに答えており、その魅力に人々は集まっているのだ。

ひろゆき氏は、嘘を嘘と見抜き、掲示板を利用するリテラシーがある人々、すなわち掲示板の情報を鵜呑みにしない人々から共感を得ている点も重要である。野放図な掲示板を自ら運営しながら、その情報を鵜呑みにしない人がひろゆき氏の考える「マトモ」な人間像である。この二重性が、不思議な説得力を生んでいるのだ。極端な言い方をすれば、自ら危険物をつくりだし、その危険物の取り扱い方を自ら示すことで、常人よりも一段上の立場を生み出し、「マトモ」な人間から評価されている。ひろゆき氏の本質はこういった自作自演にもあるのである。

最後に

私はひろゆき氏に対して、その無責任な態度と、軽々しく人を煽る態度に心を痛めている。その煽りには事実誤認の場合もあれば、一貫していない意見もある。人は誰もが間違いを犯すし、誰もが傷つきやすい。私は「無敵の人」という言葉の定義に懐疑的である。ネオリベの影響や世代に関係なく、人は誰もが自分の命を顧みなくなれば無敵なのだから。人は傷つけば、誰もが「無敵の人」になってしまう可能性があるのだ。

ひろゆき氏は自覚しながら行っているのかもしれないが、自身が「無敵の人」のように振る舞い、無差別に人を傷つけることをやめてもらいたい。ひろゆき氏を貫いている正義は、人を傷つけるためではなく、人を救うために使うことができるはずである。危険物の取り扱い方が誰よりうまいはずのひろゆき氏が、より成熟し、正義という危険物をうまく別の形に昇華し、人々の心に平穏をもたらすような形で役立てることを祈っている。


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