高校の時に練習してた小論文のはなし
はじめに
何の機会か失念しましたが、部屋の整理をしているときに高校の時に書いてた文章が見つかりました。
小論文の練習をしてたときに、ちゃんと、原稿用紙に書いてたやつ。
当時は予備校など行ってなかったので、高校の現代文の先生にテーマをもらって書いて、添削してもらってってやってもらってました。
幼児教育の道を考えてたので、それに近しいテーマをいただいてたのでしょうね。
あのときの先生、ありがとうございます。
以下はその文です。
ノータイトル(テーマはメディアと子どもの関係について)
テレビの普及を契機として、大人の説明と指導なしでも、メディア社会に対応する子どもたち。
子ども、柔軟に何でもすぐ吸収することができる。日曜日の朝にテレビで放送されるヒーローものの変身を初見で覚えてしまい、それの真似をするという光景も珍しくはない。
大人が「こんなもの覚えられない」と感じてしまうような長いセリフでさえ一発で覚えてしまうのである。しかし、このようにメディアが流すものに即、対応できるようになったのは大人の存在があってこそではないだろうか。
女性の社会進出の結果、働く女性も多く、育児と仕事の両立の難しさから「テレビにおもりをさせる」ような事態も起こっている。こうして、テレビは子どもの世界へと根付いていく。お母さんに「遊ぼう」と駄々をこねたり、新しい刺激を自ら探さなくとも、リモコンのボタンひとつで暇を潰すことができる。このように、子どもは自然とメディア社会へと浸透していくのである。
そして、子どもに及ぶメディアはテレビだけでなく、ゲームや携帯電話など、次から次へと発展していく。
小さな画面が子どもに刺激を与え、魅力する。大人が生身で世話をしなくても、メディア機器を与えるだけでよい。子どもの周囲のメディアが常に世話をしてくれるのだ。故に、子どもは、メディア社会から離れられなくなってしまったのだ。
大人は、新しいメディアを今なお作り続け、改良していき、そして子どもへそれを与える。しかし、これでは柔軟に何でも吸収する能力を持った子どもは、大人から与えられるメディアに素直に対応しているだけなのである。
最後に
最後の方は力尽きちゃってるけど、言いたいのは「しかしながら、子どもたちが本当に必要としているのは、生身の大人との交流なのではないか?」ということ。
大人の作ってきた社会でしか生きていけない子どもたちについて述べたいのでしょうね。ところどころ、ちぐはぐだけど高校生の時なんで許してください…。
私はこんなことを考えてたんですねえ💭しみじみ。
高校生なんて、何も考えずすっからかんだった気がするけど、経験もない器もない小さい頭で考えてたんでしょうね。
18歳の私にふと会えた気がします。もし、もしも本当に会えるなら、紙パックリプトンのピーチティーを一緒に飲みながら「今でも同じ気持ちだよ。」って伝えてあげたいです🍑
(あと、夫も一応いるよとか、まだ子どものこと考えてるよとか。)
おしまい。
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