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過去を書く行為は、嫌な記憶に消しゴムをかけること

noteに過去のことを書き始めて数週間たちました。、noteに過去の出来事を書くにあたり、友人が二人読んでくれると言っていたのですが、思いがけずスキをくださる人もいて、全く読む相手のことを考えてない文章なのに読んでくださりありがたい限りです。

私はこのnoteに過去の出来事を書く行為を、記憶を吐き出して忘れるために始めました。
10年くらい前から、ブログに自分の過去の出来事を書きたいという思いがあり、一度書いたこともあるのですが、結局続けることができずやめてしまい、全て消してしまいました。しかし、その後何年経っても、過去のことをブログに書きたいという思いが消えず、最近人に対して聞いてほしいという衝動が湧いてしまったことがあり、まずいなと思っていました。

そんな矢先、4月ごろに私の働いていた保育園の親会社の偉い人が21億円ほど詐欺を働き警察に捕まり、その煽りを受けて突然保育園が閉園、解雇という人生でなかなか出会わない出来事が起きました。
最初は訳がわからないし、感情も激しく動き、ショックも受けていたのですが、何とも珍事件すぎて、人に話したくなり、友人等に片っ端から話しました。心配して話す時間をわざわざ作ってくれた友人もいました。

そうやって人に話しまくった結果、マイナスの感情がだんだん無くなり、私はその出来事のことを、どうでもいいこと、と捉えられるようになっていました。給与の未払金もボーナス含め90万円くらいあるのですが、しょうがない、災害にあったと思い次に行こう、と今は思えるようになっています。
『話す』は『放す』であり、話すことというのは、マイナスの感情をなくし、次に向かって進むために大事なことなのだと、気づくことができました。

そして、その流れで、自分の過去も人に話すことで手放せるのではないかと思い、鮮明に覚えていて忘れることのできない過去の出来事をnoteに書いていく覚悟をしました。
思い返してみると、子供の頃の辛い経験というものは、それを話せる相手がいなかったため、自分の記憶の中にだけあり、ほとんど人に話したことのないものが多いです。
大人になった今であれば、それこそ友達などと、仕事であった理不尽な話なども、お酒でも飲みながら話して聞いてもらうことができますが、幼かった当時の私は、自分の身に起きた出来事や、それで感じた感情を自分の外に表現する相手も場所も持ってはいませんでした。なので、当時の私に、noteという話す場所を与えて、飲みに行って話すように、書くことで表現させてあげようと思ったのです。

ただ、過去のブログに描くにあたり、「そんなことをするよりも楽しいことをした方がいい」「楽しいことをして振り切ってしまった方がいい」という人もいました。確かに、過去の辛い記憶について、書くことには賛否両論があります。思い出すことで強化してしまうため、忘れるためにもどんどん楽しい記憶を上書きしていった方がいいという考え方もわかります
一応私も、過去に楽しいことをやって振り切っろうとしたりしてみましたが、私の場合、楽しいことをしようとしても、結局辛い気持ちが手を離してくれず、大岡捌きのような引っ張り合いの状態になってしまったので、とりあえず過去を片付けようと思い、書くことにしました。

書き始めてみて、正直、書くことはしんどいです。
書くことによってその当時の心理状態にもどってしまうのか、書いた後は気分が落ち込んだり、ひどい時は動けなくなっています。
ただ、確実に頭の中から辛い記憶が消えていっています。まるで消しゴムで記憶を消しているかのように、消えて思い出せなくなっています。
とはいっても、全て思い出せないわけではないのですが、書く前は思い出そうとすると、まるで身体の細胞全てが記憶しているかのように、身体全体が反応していたのですが、書いてしまった後は、昔見た映画のシーンを思い出すような、自身の感情とは切り離された記憶としてどこか客観的に思い出すようになりました。
また、気分が落ち込んでも昔のようにずっと続くわけではなく、大体一晩寝ると翌日は前日より軽い気分で目覚めることができます。

また、こんなに親をボロクソに書いているにも関わらず、書き始めてから「私は親に愛されていたし、私も親を愛していた」
という気づきが起きました。「〇〇だからそう思った」というものではなく、突然唐突に、何の前触れもなくストンと気づきが起き、腑に落ちた感じです。親を悪く書いている自覚はあるので、このタイミングでこの気づきが起きたことに、少し困惑しましたが、私がずっと求めていた、親に愛されているということを知識ではなく心から納得したいという夢が、親のことをボロクソに書いたことで叶いました。非常に不思議です。

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