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「一生懸命やっている」ことを議論の俎上にのせることについて


議会を聞いていて引っかかるのは「一生懸命やっているから賛成する」という流れがしばしば見られることである。

魔法のワード

「一生懸命やっている」を議論の俎上にのせるときに、この一生懸命やっていると述べる人はどのような物差しを持ってその一生懸命さを計っているのか、その物差しを明らかにしていない時点で個人的な感想をふっかけていることになる。
そして問題の中心から話がズレる。

そして褒めているようでありながらも、同時によくわからない物差しからはみ出た「一生懸命やっていない」も生み出していることに気がついていない上に、批判をした人はその同時に生み出された「一生懸命やっていない」と評価する側の人と認定し、批判する人を敵対する構図に勝手に巻き込むのである。
敵対された側は「一生懸命やっていないとは思っていない」(というかそんなこと問題にしていない)のだが、批判した時点で人格否定をしたことにされてしまうのだ。
なので一生懸命さを俎上にのせてきたら閉口し、同じ俎の上で話すのを止めるのが正しい姿勢のように思う。
大きな論点ずらしな上に、批判する人を悪者にできる魔法のワードだなと思う。
かと言って、その議論の勝ち負けがあるとしたら、相撲をとっていたのに急にジャンケンをはじめて無敵チョキを出してこっちが何を出しても「負けてない」と言い張るような感じなわけで、さっさと相撲やりましょうよ…と呆れてしまって勝負そのものを有耶無耶にさせる。
匙を投げたのはそちらだろ?という状態だ。
しかし匙を投げたくせに、無い匙を高らかに挙げて「勝った」と勝ち誇られてしまう。
裸の王様だ。

「それってあなたの感想ですよね」

レポートや論文を書くときに「〇〇と思う」と書かないようにしましょう、と指導することがよくある。
言語の使い方によって思考の方法が変わると良いなと思って、形から入る指導だが、言語を規定すると思考が追いかけてくると思うので大事なポイントだと思っている。
この形の背景には、反証可能性を残すということがある。
例えば、「私は〇〇と思う」は私が思ったのだから批判する隙のない真実なのだが、一方で「私」以外は検証しようがない真実でもある。
誰もがこれは正しいかどうかを検証できる、再現できる、と言うことは、客観性という点において重要なのだが
「私は〇〇と思う」という言葉は、私が思ったことなので、私以外はそれを検証できないのである。
「このチョコレートは甘いと思う」と言ってもその「甘さ」をその人と同じように感じることは同じ個体ではないのでその思ったその感覚を再現することは不可能なのだ。
「あなたは甘いと思っていない!」と反証する可能性がゼロで、「あなたが甘いと思っている」は「あなた」しか再現できない。
再現が可能ということは同時にそれが正しいかどうかを確認することでもある。

「一生懸命やっている」というのは「それってあなたの感想ですよね!?」の域を出ず、私はあなたになれないので、どの一生懸命さをどのように評価しているか分からず、賛成も反対もできないし、その評価基準は他の人に当てはまらないし、他の人が納得する訳ではない。つまり、再現可能性、反証可能性がない話なのだ。
ひろゆきのこれは実は的を得ているのでは?と思ってしまう。

根拠は雲のよう

この俎上にのって、もしくはのってないけど片方だけのったまま議論を進めると、批判する余地を残していない議論にすり替えたのだから、批判すればただの信念対立になり(なったと思われて)、その俎板の上に乗ったままの方は人格・信念を否定されたと憤るわけだ。
これを税金を預かり、多様な市民のある程度妥当だと思う納得をベースに行う政策を左右する議会で行えば、雲のようなフワフワとしたものを根拠にお金が使われているとしか言いようがないのではないだろうか。
本来であればどのようなお金の使い方をしたのか、(賛成はできなかったとしても)納得のできる筋があるかどうかを確認できるように議会で議論が展開されることで、その議会がお金を使うに値する(つまり議会が機能している)わけなのだが、ただの多数決の決を取ることだけに躍起になると、信念対立を起こして同じ信念の人に手を挙げてもらうことに集中する。

とりあえず議論の外側から眺めてみる

と、こんな話をしておかしいと気づくようであれば、こんな議論にもならない議論は展開しないと思うので、馬の耳に念仏なのは百も承知だが、対立して疲弊している人には、俎の上から逃げて良いよと言いたい。

そして、批判を受け入れることは大事とかそういう心持ちの話ではなく、そもそも批判する余地を残した議論を展開できているのか?という視点で議論を見てみると、議論の内容に一喜一憂する前に「これはそもそも議論に値する構図なのか」が見えて少し冷静になれると思う。
そしてその議論になり得ない発言する議員を次回選挙で選ばないという選択をすることが大事なのではないかと思う。

最後に一生懸命やることを否定しているわけではないということを付け加えておきたい。
少なくとも人様のお金を預かってそれをどう使うかの根拠を作る議論において一生懸命さを持ち出す稚拙さに対する考えで、一生懸命さを無にしたい訳はさらさらない。
この手の話をするとなぜか私が一生懸命さを冷笑するような冷たい感じにとる方が一定数いるのだ。
むしろ私は人が一生懸命の先にある無心になる瞬間の幸福感、特に遊びやスポーツの場面での幸福感がいかに作り出せるのかが研究の主題と言っても良いので誤解されないでほしい。


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