目に見えないけどありふれた地獄の話【精神的虐待親と一人っ子の私とそしてうつ病】
■はじめまして。
ぐら、といいます。25歳のおじさんです。
これを読んだ方がどう判断されるかわかりませんが、
僕は自分を『被虐待児』だという認識をしています。
愛着障害について話題になっていたので、一例として私の生い立ちを記すことにしました。
それについて苦悩した時期もありましたが、もう乗り越え、逆に「この生い立ちってコンテンツになり得るのでは?」とまで開き直れているので安心してお読みください。
■典型的な環境
私の母はその母(祖母)にあまり愛されて育てられなかったようで、
祖母から認められることに必死でした。
また母は自分が高卒であることをとても気にしていて、
それを負い目に感じていたようです。
そのために私を「理想的で完璧な孫」に仕立てあげることにとても熱心で、私は「母の考える理想の息子」に適さない言動をすると、
ヒステリックに「私の息子はそんなことしない!お前は誰だ!」と数時間ヒステリックになじられたり(もちろん手も出されました)、
もうちょっと上の年齢がやるような漢字ドリルをやらされ、少しでも書き順を間違えると今までやった分も含めドリル全体を消ゴムで消して、
「最初からもう一回」というのを何度か続けて夜遅くまでやる。
そんな幼少期でした。
私は一人っ子で、早生まれでした。
父は子育てに無関心で家庭内で誰も母を止める人はいません。
私は小さいうちから自分を守るために「理想の息子ムーブ」を覚えて生存の戦略としました。
大人の顔色をうかがい、その大人の望む動きをしました。
自分がしたいことを我慢してでも、そちらを優先しました。
そうしなければ、母は私を認めてくれなかった。
「ぐらくんは言うことちゃんと聞いてえらいね。」とよく言われたのを覚えています。
■みんなそうなんだ。
そんな生活を繰り返すうちに、
「理想の息子」である人格と、
「母に認められない自分」という人格に分かれていきます。
今だからこそそんな風に分けられますが、当時「理想の息子」が本当の自分だと思っていました。
だから外でも理想の息子でした。
自分の幸せを犠牲にしてでも、他人の役に立つ。
そういう「昭和の人間が考える理想の聖人」そのものでした。
母が求める言動をして、母に褒められることが喜びでした。
それが子どもだと思ってました。
そうするのが子どもの仕事だと。
同じクラスの友達が愚痴ります。
「かあさんがさ~」
あ、どこの家庭もそうなんだ。
みんなつらさや苦しみを耐えて理想の息子、娘やってるんだ。
みんなそうなんだ。
今思えばあの頃すでに「自分の家庭への違和感」を感じていましたが、
母に反抗すると生きていけないのでみんなそうだと自分に言い聞かせます。
そんな暗示も効果があるのは小学生の頃までで、成長していくにつれて自我が芽生えてきます。
中学生に上がる歳になると精神が変化していきます。
当然、身体も、容姿も。
■容姿なじり虫、湧く
中学生になりはじめると、ニキビが出来始めます。
私は外でも家でもストレスすごかったからでしょうか、人よりヒドいニキビ面でした。
すると母の「理想の息子の容姿」からは外れてしまったのか、
顔を合わせるたびに「ひでぇ顔だな!」と罵られるようになりました。
私の顔を見るたび顔をしかめます。
私は自分が「理想の息子」ではなくなったことにひどくショックを受けました。
今まで持っていた自信が根底から崩れ去りました。
落ち込んで寝られずに布団の中で、夜が明けるまで天井を見つめていた夜は数知れません。
すっかり生気を失います。
するとそこに付け込んで暴力的なオスがモテる、と直感的にわかっている男子たちが僕の容姿をいじりだします。
「悲惨」
「見てて不快」
「純粋に汚い」
でも言い返しません。
「母が言ってるならその通りであり、事実を言われているのだから黙って受け止めるしかない」からです。
言い返してこないとわかったのか段々エスカレートしていきます。
顔に水をかけて、顔の脂で玉になって水が残るのをアートといって楽しんだり、
典型的な「○○菌」であったり。
家でも外でもなじられ、なじられ。
私はどんどん自信を失っていきます。
■少しづつ目覚める反抗心
そんな時、音楽に出会います。
デ○アゴスティーニの「週刊SSW」のCMになぜか心惹かれて隠れて買います。(音楽を作るソフトが付属していた)
当時、パソコンは共用で居間にありましたが、なんとか隠れて少しづつ音楽をします。
我が家では音楽は厳禁でした。
母は学生の頃ピアノをたしなんでいてピアノの先生を目指していました。
が、妹(叔母)の私大の学費のために高卒で働けと家を追い出されたのです。
このような経緯で「音楽」を憎んでいることを日ごろの愚痴から知っていました。
ですからバレないように細心の注意を払って音楽を作っていました。
才能があると思いました。
それまでまったく音楽に関する教育を受けていなかったのに、割と出来がよかったのです。
どんどんのめり込んでいきました。
どんどん「音楽をきちんと勉強出来る環境に行きたい」という思いが強くなっていきます。
抑えきれなくなってついに、母を説得して教育を受けさせてもらおうと打ち明けました。
■愛してくれていると思っていた
ダメでした。
このころはまだ「子どもが真剣に頼み込んだなら受け入れてくれる母親」だと期待していました。
なんだかんだ言っても愛してくれているはずだ、と。
母は「音楽なんてまったく役に立たないものに興味を持つなんて、なんて出来損ないなんだてめえは!」と私の音楽関連のものを処分しようとしました。
これまであまり反抗しなかった私は始めて母親に声を荒らげて抵抗しました。
■背徳感と反抗への目覚め
一瞬、母がビクッとしたのを見逃しませんでした。
それを見た自分の中に「喜び」を感じ、それを感じている自分を気持ち悪いと思いました。
子どもの分際で大人に逆らうという禁忌を犯した自分にもショックを受けていました。
私が呆然としているうちに、母は顔を真っ赤にして台所に行き、家で一番大きな包丁を持ち出し、
「私に逆らうなら私を殺せ」と私に渡しました。
私はもうショックでなにがなにやらわからず混乱してしまい、
どうその場をやり過ごしたかは覚えていませんが、
泣きながら土下座をして「これだけは捨てないでください!」と頼み込んだのを覚えています。
■高校生に
私は県内でも上から何番目な進学校に進学しました。
県内一番の学校でないことを母はボヤいていましたが、
「東大に行けさえすればどこでもよいか」と自分を納得させていました。
高校生になると多少の分別がついてきます。
「私の家はどこかおかしい」
親と仲が良い人がいる。
親は敵じゃないのか?
大人に逆らえる人がいる。
そんなことすれば精神ボロボロになるまでなじられないのか?
そういう「私の常識外の人」がいっぱいいた。
嫌でも気づく。
私の家庭が常識外なんですね。
「自分が他人と違う」というのは、どんどん自己卑下を加速させました。
いつも母から「他人と同じじゃないとハブられて虐げられる」と脅されていた。
中学で実際に体験しています。
また理想とはいかないまでも人好きする性格を演じます。
他人に合わせないと、という強迫観念を持ちながら他人と接するのは相当に疲れます。脳みそフル回転です。
私はだんだんと一人を好むようになっていきます。
■初めて味わった愛情
私の演じた性格が「面白くて優しい人」だったからか、
ありがたくも私のことを好きになってくれる女性がいました。
恋愛に興味もあったし断るのも聖人らしくないかと思って、別に好きな人はいましたが付き合うことにしました。
性格の相性はとても合いました。
初体験もしました。
母から抱っこされることの少なかった私には
女性のあの包容力と、
無条件で他人に受け入れられるようなあの快感は麻薬のようでした。
結果、どっぷり依存しました。
彼女はそんな私に戸惑いながらも彼女なりに愛情をくれていたと思います。
■地獄の終着点
受験が近づいてきました。彼女は推薦ですでに旧帝大に受かっています。
が、私の学力はそうでもなかった。東大なんかにはもちろん行けない。
(勉強どころの精神状態ではなかったのです)
母は毎日私をなじりました。
「東大に行かせるためにお前を毎日食わせてやってんだぞ!穀潰し!」
そしてついに「てめぇなんか高卒で働けクズ!」と国立大の願書を目の前で破り捨てました。
破ってから、さすがにマズいと思ったのか「受かったら学費考えてやるよ」と私立だけは受けるのを許してくれました。
「ありがとうございます。ありがとうございます。」と何度も頭を下げました。
その一週間後、学校から帰ったら母は救急車で病院に運ばれていて家にいなませんでした。
■地獄の一人抜け
癌だったそうです。入院が必要なほどの。
私はようやく家での平穏を手に入れたが、不安で不安でしょうがなかった。
あんなに恨んでいる母親に対して、「死ぬのは悲しい」という思いを持っているのです。
自分が哀れで情けなくて仕方がありませんでした。
私の精神も、もう限界でした。
不安だったり自虐だったり、そういう歪んだ感情を彼女にぶつけてしまいました。
「重い」
別れの言葉はそれだけでした。
幸い母は命に別状はなかったようで、一週間ほどで帰ってきました。
病院から帰ってきた母はまるで人が変わっていました。
「今まで生き方を押し付けてごめんね。もう自分のしたいように生きていいんだよ。」
「今までホントにつらかったよね。ごめんね」
行き先を失った恨みは自分に返ってきました。
■原因があれば結果もおのずと
今まで自分の生き方なんて考えたことありませんでした。
「母の言うとおりにすること」しか生きる道を知らなかったのです。
それが急になくなってしまいました。
「ここから先は自己責任です。」と言われているようでした。
周りを見ると「きちんと親に愛されて自己実現へ向かう人たち」ばかりでした。
執念で大学に受かりました。
もうそれで限界だった。
自分のあらゆる言動を責めるもうひとりの自分の声がいつも聞こえてきました。
「育ち方間違えたお前はもうダメ」
「親のせいにするなよ!自己責任だろ!」
そして私の目の前で新しい彼氏とまぐわう元カノを見ます。
私など見えていないかのように、激しく交わります。
幻聴、幻覚でした。
入学後1~2年経ったある日、私は布団から出られなくなっていました。
次の日も、その次の日も。
異変に気づいた母は泣き、それを見るのが嫌で部屋から出なくなりました。
私が部屋から出られるようになる頃にはすでに半年経ってた。
鬱だった。(と、思います。病院に行く気力もありませんでした。)
部屋から出た私を見た母は喜んでいましたが、私はそれになにも感じなくなっていた。
感情がとても鈍い。
身を整えて家から出た。
覚束無い足取りで市内で一番高いマンションを目指す。
いい天気だ。
死ぬならこういう日だ。
マンションの最上階に行き、柵に手をかける。
上半身を乗り出す。
景色がいい。意外とここはいい街だ。
そのまま頭を下にして落ちようと思ったその時。
咄嗟に力を入れてマンション側に倒れた。
失敗した。
一度失敗すると急に死ぬことが怖く思えてその日は帰りました。
■地獄は続くよどこまでも
それ以降も私の人生は続いていますが、あまりうまくいっていません。
被虐待児がかかりやすいといわれている精神疾患にかかり治療しています。
しかし、少年だった頃の苦悩よりよっぽどマシだと思っています。
それどころか、あまりこの記憶と今の自分に連続性を感じられないというか、「別人の記憶」という気さえしています。
だから、こうして綴ることにも抵抗を感じていません。
こういう体験ってあまり語られることがないので貴重ではないかと思い投稿してみました。
■さいごに
これは1年前にTwitterに書いた生い立ちを再編集したものです。
事実、かどうかは自信がありません。
自分の記憶という実感がないため、記憶ではそうだったとしか言えないのです。
また経年のなかで誇張された可能性も否定できません。
確実に覚えているのは「精神ボロボロ」だったということなのです。
2019.10.09 ぐら
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