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大比較時代



インターネットの普及により、僕たちはかつて知り得なかった世界中の人々の生活を知るようになった。

誰が何を持ち、どのように暮らし、どれほど成功しているのか。

それは一見、知識の豊かさをもたらすかのように思えるが、実際には終わりのない比較の連鎖を引き起こしている。


僕自身も、かつてはこの比較の連鎖に囚われていた。

SNSを開けば、他人の華やかな生活が次々と目に飛び込んできて、気づけば自分と比べてしまう。

「自分はまだまだだ」「もっと頑張らなければ」と焦る気持ちが募っていた。

だけど、どれだけ努力しても、どこか満たされない感覚が心の奥底に残っていたんだ。


この終わりのない比較は、競争社会をさらに苛烈なものにし、自分の価値を他人との相対的な位置づけでしか見出せなくなった多くの人々に、無力感や劣等感を植え付けている。

結果、僕たちは満たされることのない欲望に駆られ、追い求める幸福がどんどんと遠のいていく。


例えば、ブータンのことを思い出してほしい。

かつて「幸せの国」として知られたブータンは、国民の97%が幸福と感じる国だった。

しかし、近年ではその幸福度が著しく低下しているという。

原因は何か?それはテクノロジー、特にインターネットの普及だ。


ブータンの幸福度低下の背後には、テレビや携帯電話、インターネットなどの情報端末が普及したことで、外部の情報が大量に流入し、人々の意識や行動に影響を与えたことがある。
 
広告は人々の欲望を刺激し、比較を生む。

そして、比較による劣等感が犯罪や不安、憤りを生み出す。

結果、かつて「知らぬが仏」であった人々が、「知ること」によって不幸になってしまったのだ。



この現象は、ブータンだけでなく世界中で見られる。

アメリカでも、白人労働者階級の平均寿命が他の階層に比べて短くなっているが、その原因としてドラッグ、アルコール、自殺が挙げられている。

2015年には「絶望死」と題された論文が発表され、この現象が注目された。

その背景には、高学歴層と低学歴層、高所得者層と低所得者層の間の分断がある。

比較による劣等感が、絶望死へと導いたのだ。


僕もかつては、社会的な成功を目指して必死に努力していた時期があった。もっと稼げば、もっと認められれば、幸福が手に入ると思っていたんだ。

だけど、その結果はどうだったか?手に入れたのは、一瞬の達成感とその後に続く空虚感だった。

人は一度何かを得ると、次はもっと上を求める。

際限のない欲望の連鎖に巻き込まれていたんだ。


これが、僕たちが生きる「大比較時代」だ。

終わりのない比較によって、僕たちは他人の基準に振り回され、外部の評価に依存してしまう。

しかし、比較によって成り立つ幸福など、いつ無くなるかもわからない一時的なものに過ぎない。

そんな不確実な幸福を追い求め、一喜一憂するだけの人生で良いのだろうか?


僕はそうは思わない。

僕が目指すのは、外部に左右されない絶対的な幸福、「極上永遠の幸福」だ。

この幸福は、どんな時代や状況でも揺るがないものだ。

僕がそれに気づいたのは、物理的なものや社会的な地位では決して本当の満足感が得られないということを、身をもって知ったからだ。


比較の果てに見つけるのは、終わりのない不安や無力感だが、その向こうには絶対に変わらない幸福がある。

その幸福を見つけた時、僕たちは本当の意味で自由になれるのかもしれない。

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