推しは太陽で私は月
推しがいない人には分からないと思うけどさ
推しがいると、本当に灰色だった世界も輝き出すんよ(例外あり)。その光を浴びて私もやっと光れる月のようなもので…
その月の満ち欠けがあって、満月もあったり、真っ暗な時もあったり…
でも、そこに確かに"わたし"があって、生かされてる。
その太陽は1つじゃなくたっていいと思うし、当たる光の強さもそれぞれあって、でもそれがなくちゃ光ることの出来ない自分は、なんか違うかなと思うことがあって…
さくら学院というグループが好きだった。
クラシックしか触れてこなかったピアノや声楽を習ってた私が日本に来て初めて好きになったアーティスト、アイドルグループ。
そこで、推し、というモノの尊さを知った。
推しは誰であったって言い訳だし、身近な人を推すというムーブが最近あるらしい(現に、私の高校生時代にもクラスの男子を恋愛感情ではなく、推してるというふうに言ってた仲のいい同級生が居た)。
推しってなんだろうと考えた時、ソレは太陽のようなものだと私は思った。
もちろん、人にとっての太陽は様々だ。
お子さんがいるなら子供のために生きようとか、パートナーがいるなら彼(彼女)のために今日も頑張ろうとか思える人がきっといるでしょ
そうじゃなきゃ悲しすぎるって私は思う。毎日を淡々と生きる。それは悲しいことだと"わたし"は思う。
人生って死ぬまでの暇つぶしって言葉があるじゃないですか。
私も本当にそう思っているんですよ。
暇つぶしだからただの暇つぶしだし、つまらなくてもただ暇だから働いてる、暇だからご飯を食べて寝る、暇だから今日を生きているって人もいると思う。
でも、どうせ生きるなら楽しく生きたいなぁ
私が楽しければ、それで誰かを傷つけなければ…それで万々歳。多少影響は与えられるかもしれないし与えるかもしれない。その心の揺らぎを与えた存在も与えられた存在もいつかは死んじゃうんでしょ?
話が逸れちゃった。推しだって実は太陽じゃなくてもっと大きなひかる星に照らされた存在かもしれない…それでも光ってくれてて、それで光を与えてくれてるのなら、それで万々歳。
推しが光を与えてくれる。その強い光を浴びて私も光る。
そこには確かにわたしがいて、いつかは死ぬ
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