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モナドには窓がない (今井友哉)

 「モナドには窓がない」と言ったのは、ライプツィヒ生まれの17世紀の哲学者・ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツだ。より正確には、『モナドロジー』第七節にて、「モナドには、ものが入ったり出たりする窓がない」と彼は書いた。それにたいして、「モナドは窓をもつ」と言ったのは、オーストリア生まれの20世紀の哲学者であるエトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサールである。『間主観性の現象学』第三巻・第二部・第十六節の見出しに、そう書かれている(しかし、必ずしもライプニッツと対立的な主張ではなく、フッサールもまたモナドには窓がないという前提から出発し、外部のないモナドから世界や他者がどのように経験されるのかを問題とした)。あるいは、「窓なき小部屋はとても暗くて昼か夜かも分からず」と書いたのは、アイルランド生まれの劇作家・小説家のサミュエル・ベケットだ。ベケット研究者の森尚也によれば、ベケットの散文「なおのうごめき」の初期草稿に書かれていた一文だという。また、ベケットの小説『マーフィー』には、曇ったガラスの天窓が付いた屋根裏部屋の描写がある。その『マーフィー』には、フランス語版にだけ「ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツが生き、そして、何よりも、死んだその部屋で」というパッセージがあるという。「二度と朝には出会わない窓のない部屋で」と書いたのは、日本生まれの作詞・作曲家である藤原基央だ。「太陽」という曲の中では、「窓のない部屋」という言葉が繰り返し使われる。

 ─ ─ ─ ─ 京急線の横浜駅で電車を待ってる時、お酒を飲んだせいで苦しみの只中にいたんです。近頃ますますアルコールへの耐性がなくなってきていて。そのときは帰り道の時間が長いせいもあるでしょうが、リュックサックの肩紐が首回りを引き締めて気持ちが悪くて、ただでさえ日が暮れるにつ
れて目の活動限界が近づいて、頭痛と空嘔がひどくなるんです。という状態にはもう慣れましたけれども。いちいち意識する必要もないということを意識するだけになりまして。このカラダの苦しみはどの程度のものか分からないので、自分でもどのくらい悩めばいいものなのか分からないんですよ。ただの生理的で自然な痛みで、検査すれば見つかるような病気でも精神的な疾患でもないんだと思っています。
 いまさっき「頭痛と空嘔」と書きましたけど、こう書いたからといって、その苦しみの大きさは未知のままでしょう。事細かに苦しみを描写すればいいという問題ではないんです。どれだけボクがことばを連ねたとしても、その表現から伝わる苦しみが思い込みである可能性からは原理的に逃れられません。さらに悪いことに、ことばによる表現を尽くすほど、ある地点以上からはことばはカラダの表現の臨界点を超えて、ボクは自分のことばにたいして疑いを持たざるをえなくなる。ことばのためにことばを使っている状態になって、ことばとカラダの癒着がなくなるんです。言い換えれば、ことばはカラダの表出ではなくなる。いや、ことばは初めからカラダの表出であることに成功していないのです。誰かがこの苦しみを分かるよって承認してくれたって、あるいは医者という権威がボクの苦しみの度合いを決めたって無駄です。変わらないのです。そのことに安堵して短絡することができたって、やっぱり思い込みである可能性がなくなるわけじゃないですから。─ ─ ─ ─

 Kindle を買った。友人が持っているのを見て、少し触らせてもらったら、スクリーンの質感がスマホのそれとは全然違ってビックリした。これまでは電子スクリーンを長時間見続けると、頭痛と空嘔がひどくなるので、出かける時は紙の本を携帯していた。しかも、そのとき何を読みたくなるか分からないので、いつも3冊くらいリュックサックに入れて持ち歩き、カラダに負荷をかけていた。Kindleはそれを解消してくれるはずだと思ったのだった。
 ホワイトカラーの仕事に就いていたときは、1日に10時間くらい電子スクリーンを見ていた。そのほとんどはパソコンを見る時間だった。すると、午後から夕方にかけてカラダの調子が悪くなってくる。週の後半になるほど、すぐに症状は現れた。電子スクリーンを長時間見ても平気な人がいることは、身の回りの人間と会話する中で知っていた。とはいっても、出会う人に片っ端から聞いて確認するわけにもいかないから、同僚の大多数は自分と同じ苦しみを抱えながら働いてるものだとワタシは自分自身を納得させていたのだった。
 Kindle は結局使いこなせなかった。Kindle で本を読みたい時間は行き帰りの電車だったけれど、行きはかろうじて読めたとしても、帰りの電車は既にカラダが弱っていて、Kindle は紙の本よりも文字を追うのに集中力を要するので、結局は紙の本を持ち運ぶ生活に戻った。
 ワタシはこんな等しくつまらないことを書くことで、少しでも自分の窓を開こうとしているのだと思う。ここまで書いてきた言葉は窓になって、ワタシを小部屋から大部屋へと連れ出してくれると期待する。大部屋の窓を覗くと、さっきまでいた小部屋が覗けるようになる。そして、大部屋の窓から小部屋に対する他の人の反応を見ることで、他の人にも窓があるんだとか、覗き見合うことができたんだとか、そういったことを仄かに確認する。それでも何よりも恐ろしいのは、言葉を見て、その言葉を理解するワタシは、部屋の窓から眺める存在にいつも入れ替わっていることだ。言葉の理解は、苦しみと同じで、思い込みである可能性から原理的に逃れられない。モナドには窓がない。





企画: 02. 開け放たれた部屋

 部屋とはある孤独な単位の象徴です。しかし、その部屋が開け放たれる。しかし、部屋の外に出る、というわけではない。孤独から解き放たれるわけではない。
 この展示ではそれぞれの部屋を孤島と見立てて、会場の各地に作品を点在させています。それぞれの孤島=部屋=作品が、他の島から分け隔てられている状態でありながら、同時に外を想像するとはどういうことなのか。
 孤島には、作者の私物がばらまかれています。それはいわば、孤島=部屋からの漂流物です。作品と一緒に、漂流物としての私物もまた読書のよすがにしていただけたらと思います。

企画作品一覧



修了展示 『Archipelago ~群島語~』 について

佐々木敦が主任講師を務める、ことばと出会い直すための講座:言語表現コース「ことばの学校」の第二期の修了展が開催された。展示されるものは、ことば。第二期修了生の有志が主催し、講座内で執筆された修了作品だけでなく、「Archipelago ~群島語~」というコンセプトで三種類の企画をもうけ、本展のための新作も展示された。2023 年8 月10 日と11 日に東京都三鷹のSCOOL で開催。

『Archipelago ~群島語~』展示作品はこちらからご覧ください。



「群島語」について

言葉の共同性をテーマとし、言語表現の新しい在り方を試みる文芸誌『群島語』
2023年11月に創刊号を発表。

今後の発売に関しては、X(Twitter)Instagram で更新していくので、よければ是非フォローお願いいたします!

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