心臓 (下坂裕美)
新幹線では、ずっと遠くの景色を見ていた、近くは速すぎるから。神社で買った家内安全のお守りをポケットに入れて、駅の売店でもらった小銭をポケットに入れて、新幹線の中で外したピアスをポケットに入れて、それを全部落としてきてしまった。ポケットに穴が空いていたから。ミシンの音よりも大きな声で言う。
顔が見えなくても、あなたが笑うのがその輪郭でわかる。
開け放たれた部屋であなたが揺れる。あなたはわたしの半身をすり抜けるように膨らんで、部屋を満たしては大きな両手で捻られたように萎む。その一瞬、布の表面に、人の形が現れてまたすぐに消える。
ちょっと窓を閉めてもらえる? 風が強くなってきたから。あなたがそう言うときにミシンは静止している。その声のまわりで帆のようにはためく布は、柔らかすぎて音もない。
もうしばらく、あなたはカーテンの中にいる。天井からぐるりと吊った布の一周の端と端は縫い合わされて、覗く隙間すらない。いつの間にか、あなたのことを考えるときにはカーテンを頭に浮かべているし、きっとカーテンのことをあなたと呼んでいる。
ああ、春だから。
春一番で。
外はどう、霞んでいる?
うん、電車から見える遠くが白っぽかった、何かを焼く煙は低い雲とほとんど見分けがつかない。
話しながら窓に近づけば遠くの光が震えて、爆発しそうに見える。空気が濁るほど、強く光るのはなんでだろう。鍵を下ろして、この部屋とあなたとの間にわたしを閉じ込める。
振り返ればあなたはこのワンルームの亡霊みたいにしてそこにある。自分でも知らないうちに肥大してしまった地縛霊。その曖昧な姿のうちに、病室のベッドに眠るあなたも、ホテルのユニットバスでシャワーを浴びるあなたも、教室の窓際で外を眺めるあなただって見ることができる。嵐が来るのをたまに想像する。突風がガラスを粉々にして何もかも滅茶苦茶にして去っていく。そんなことを、わたしは言わなかった。
またミシンが駆動し始める。夜にはこうしてミシンを踏んで、縫うものがないときには、あなたは自分自身を繕い続ける。新たに布を付け足して丈を長くしたり、たっぷりとひだをつくったりして、もう部屋のどこに行くにもカーテンから出る必要がない。その体すべてで部屋に馴染んでいる。部屋の脇に置かれたダブルベッドにもカーテンごと横たわり、トイレも布を引きずったまま向かう。ダイニングテーブルにはカーテンごと腰掛けて、スリットから手を出してひと匙ごと口に運ぶ。段々と重くたわんでいく布は、天井に捩じ込まれた大きな四つの金具で支えられている。
まだあなたが剥き出しで生きていたころ、壁に向かってかけられたサンプルの中から、二人で選んだカーテンだった。生活に不向きなわたしたちはどんなカーテンを買えばいいのかわからなくて、レースカーテンでも遮光カーテンでもない、薄く切ったミルクゼリーのようなものを選んだのはわたしだった。帰りに、透明な板を挟んで食べたカレーは、喉に詰まってうまく飲み込めなかった。規格品のカーテンはかけてみれば大きすぎて、どんなにかき分けても窓に辿り着かなかった。
はいどうぞ、できたよ。カーテンの下から薄いコートが押し出される。几帳面に畳まれたそれを開いて裏を見れば、ポケットは綺麗に縫い直されて、小さな鉤裂きも、糸のほつれも、取れかけたボタンも、わたしの雑な生活の痕跡がすべて完璧に修理されている。
ありがとう、おろしたてみたい。
袖に手を通しながら、今度はわたしの服を縫ってもらおうと思う。
こちら側の明かりを消せば、あなただだけがこの部屋に灯る。半透明の波を透かして、あなたの影かたちも、着ている服の色も、指先の動きまで淡く浮かび上がる。床に置かれたデスクライトにパソコンに空気清浄機。あなたの中にはあらゆる生活のコードが引き込まれて、膜ごしにたくさんの電子的な光が、それぞれの色とリズムで明滅を繰り返す。あなたはそういう生き物になっていた。
中学に入るまでは、毎年夏休みになると古い大きな家に預けられていて。カーテンのあなたは、こう始まる話を度々した。いつだって重く軋む音がして、蛍光灯をつけるほど暗い、奥ほど暗い、その一番奥に真っ黒な框戸があって、結局一度も開けなかったんだけど。その話にバリエーションはいくつかあるけれど、どんな部屋の話をしてもあなたは結局その戸に辿り着く。
夜ほどここからあなたがよく見える。夜道から眺める明るい窓辺のように親しくて遠い。そんなによく見えたことは、これまで一度だってなかった。そのうちにわたしが眠るとき、その部屋にはわたししかいない。
企画: 02. 開け放たれた部屋
部屋とはある孤独な単位の象徴です。しかし、その部屋が開け放たれる。しかし、部屋の外に出る、というわけではない。孤独から解き放たれるわけではない。
この展示ではそれぞれの部屋を孤島と見立てて、会場の各地に作品を点在させています。それぞれの孤島=部屋=作品が、他の島から分け隔てられている状態でありながら、同時に外を想像するとはどういうことなのか。
孤島には、作者の私物がばらまかれています。それはいわば、孤島=部屋からの漂流物です。作品と一緒に、漂流物としての私物もまた読書のよすがにしていただけたらと思います。
企画作品一覧
修了展示 『Archipelago ~群島語~』 について
佐々木敦が主任講師を務める、ことばと出会い直すための講座:言語表現コース「ことばの学校」の第二期の修了展が開催された。展示されるものは、ことば。第二期修了生の有志が主催し、講座内で執筆された修了作品だけでなく、「Archipelago ~群島語~」というコンセプトで三種類の企画をもうけ、本展のための新作も展示された。2023 年8 月10 日と11 日に東京都三鷹のSCOOL で開催。
『Archipelago ~群島語~』展示作品はこちらからご覧ください。
「群島語」について
言葉の共同性をテーマとし、言語表現の新しい在り方を試みる文芸誌『群島語』
2023年11月に創刊号を発表。
今後の発売に関しては、X(Twitter)や Instagram で更新していくので、よければ是非フォローお願いいたします!
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