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隙間 (今津祥)

 私は一人暗い部屋の中にいた。厚い窓によって薄められた蝉の鳴き声や車の音はうっすらと聞こえてきたが、どうもそれが私の世界のものであるとは考えられなかった。今年は例年よりも暑い夏のようだが、部屋の暗闇の中にいる私にはなんの関係もなかった。夏は情報でしかなかった。外界がすべて情報であるような部屋に暮らすようになってからもう3か月が過ぎていた。友人に勧められて会社を辞めて、はじめは使い古された細胞が生き返ったかのような軽快さが身体を行き渡ったが、それもすぐに退いていった。細胞のリバウンドでも起こったかのように、私の細胞は以前よりもずっと疲弊しているように思えた。
 掌で掴める位のカーテンの隙間から、闇の中で眠る寝室に光が侵入している。枕に横たえられた頭から見えるカーテンの隙間は真っ白だった。蝉の鳴き声が夏の熱気を想起させた。光もまた熱気を伴っているのだろう。しかしクーラーで冷やされた部屋に差し込む光は、その熱気をきれいにはぎとられた、冷たい光になっていることだろう。手を差し伸べても、手に光が当たる時にはもう光は冷たくなっているだろう。
 そんなほんの一筋の光が私を眠りから引きずりだした。私の腕は瞼の前にかざされ、光を遮り、またいつもの闇の中にもぐりこませようとしていた。
 あのカーテンの隙間を押し広げて夏の熱気の中に飛び込んでいくことで、私の細胞は生き返るのかもしれないが、それとわかっていてもわたしの身体は時間が経てば経つほどに、行動のための動機を失い続けているようなのだった。身体が二つに分裂してしまっていた。腕は瞼に密着し、もう片方の手は毛布を顎まで引っ張りあげた。そして、身体が望むままに寝返りをした。
 心配するな、と私の中の誰かが言う。しかし私は心配していない、ただただ、不可解なのだった。私の身体が私のいうことを聞かないのが、ただただ不可解なのだった。

 仰向けで眠っている隣の男。口を半ば開き、苦しそうに眉間に皺を寄せている男。起きて身体を起こすとそんな男の顔が目に飛び込んできて、物理的に身体の動きが遅くなっていく男のここ数か月の時間が思い起こされた。彼女はただ待っていた。男がその闇の中から自分の力を取り戻してくれることを待っていた。
 彼女は素早く身体を起こし、腕を持ち上げてぎゅっと目を瞑った。伸ばされた腕によって身体がぴんと張り、喉の奥で小さく、んっ、と声が鳴った。ベッドの正面にあるクローゼットを広げて、ツルツルの淡い青色のパジャマを脱いで、昨日用意してあった黒いスーツを着た。なんだってこんな暑い日にスーツを着なきゃいけないのか、彼女は不可解でしょうがなかった。理由は単純に、その日の撮影現場にクライアントが来るからだ。取引先は昔ながらの大企業だから、いまだにそんな風習が残っている。彼女は映像制作会社でプロデューサーとして働いている。
 8 時に赤坂見附のビルで撮影に間に合わせるためには、家を6 時50 分に出なきゃいけないのに、時計を見るともう6時30 分だった。長い髪を頭の後ろで結い上げて、簡単に化粧をした。お気に入りのハンカチがベランダに干してあるので、遮光カーテンを広げて窓を開けベランダに出た。部屋に光がふわりと舞った。
 ハンカチをポケットにしまった彼女がカーテンを閉めたが、ほんのすこし、掌で掴める位のカーテンの隙間がその時に生まれた。闇の中の一筋の光は仰向けになった男の身体を横切り、まだ温かい彼女の布団の上を横切り、隣の部屋へと通じる引き戸にあたって上部に折れ曲がっている。

 瞼に腕を押し付けて頭から毛布をかぶっても、眠ることができなかった。カーテンの隙間から漏れる光はほんの少しであっても、もう部屋は暗闇ではない。暗闇に慣れた私には、そのほんのすこしの光の侵入だけで眠りを妨げられてしまう。
 本当は起きたい。起きて服を着替えて皮膚を焼くような光線にさらされて散歩をしてみたい。コンビニでアイスコーヒーを買って、公園のベンチに座って、無防備に足元を歩いている鳩や、陽光に輝く木の緑や、散歩する犬たちを眺めていたい。仕事を辞めた時、そんな風景が今までにないほど新鮮に感じられたのを思い出す。しかし毛布に移る身体の熱が、より内向的な世界へと私を温かく閉じ込めようとしているみたいに、私を暗闇に留まらせようとする。
 暗闇の中で眠ること、それは意識を失うことだ。意識を失っていれば、つまり眠っていれば、私は身体に蹂躙されている自分自身を気にする必要はなくなる。私はすぐに外に出たいけれど、その気持ちの奥のほうでは、眠りに落ちることもまた、待ち望んでもいることに気づく。しかしカーテンの隙間からの光によって、私は眠りに落ちることさえ許されていない。
 眠るためにまずはカーテンを締めようと思った。身体にかかった温かい毛布をよけて、頭の方に持ち上げた足を元に戻す勢いを使って、上体を起こしカーテンに手を伸ばしたが、カーテンの隙間には届かない。カーテンの裾を掴んで思い切って隙間のほうに投げてみたが、光は先ほどよりも大きくなっただけだった。2本の足で床に立ち上がり、隙間の正面に立って隙間をぴっちりと閉めればそれで済むはずなのに、私がそうしなかったのは、立ち上がった瞬間に眠気が完全に覚めてしまうことを恐れているからだった。

 もしも彼が眠気が覚める危険を冒してカーテンの隙間を閉じたとしても、部屋は暗闇に戻らないことを彼は知らない。彼女が寝室を出た時、引き戸はほんの10 cm ほどの隙間を作っていたからだ。
 夜の間中、彼女の体温で温められた毛布は、効きすぎたクーラーによって冷やされ、毛布にくるまった彼の隣のベッドでくちゃくちゃに丸められている。彼女はいつか友人から、毛布は綺麗に畳まないほうが良いと聞いていて、それと意識しないまま、友人の言う通りにしていた。だから冬には3枚の毛布がベッドの上で絡まりあうことになる。
 それに反して彼は毎日寝る前にベッドメイキングを行っていたが、この数か月の間にその習慣は途絶えて、彼女の毛布と同じように彼の毛布もいつもくちゃくちゃのままだった。彼が彼の身体に従属させられた時間、彼の元来の習慣もまた消えていった。ベッドメイキングをする。ストレッチをする(彼は腰痛持ちだった)。朝、散歩する。起きたらすぐに水を飲む。洋服タンスに丸めて服を入れる。日記をつける。すべて消えていった。

 部屋はますます明るくなっているように思えた。そのせいで眠気も完全に覚めてしまった。もちろん一日中眠ることができるわけではない。眠ることができない時間、スマホでYoutubeの動画を見たりTwitterを見たりしていた。それが面白いからではない。見ていると時間が早く過ぎるから、Youtube とTwitter を見ていた。時間が消滅することを私は期待していたのだ。
 しかしスマホを手に取ると充電が切れていた。ケーブルを探そうとしたがどこにもなかった。私は携帯を放りなげて、もう眠ることができないことはわかっているのに、生温かい毛布の闇の中に潜りこんだ。

 彼女は昨晩、ベッドに飛び込んで、くちゃくちゃの毛布をかぶり、ライトニングケーブルに手を伸ばした。ベッドの下から伸びる2本のケーブルのうち、短い方は死んでいて、長い方は彼のスマホに刺さっていた。彼はぐっすり眠りこんでいる。彼女はなんの躊躇もなく、彼のスマホからライトニングケーブルを抜いて、彼女のスマホに差した。
 今朝、彼女がスマホを抜いたライトニングケーブルは、ベッドの隙間に滑り落ちた。こうなるとベッドとベッドの間を空けないとケーブルを取り出すことはできない。

 わたしは耐えることができなかった。眠りに落ちることができたら、この不可解な身体の横暴を忘れることができるのに、それができないからだ。かといって、Youtube やTwitter を見て時間を有耶無耶にすることもできない。
 わたしは立ち上がり、眠気が覚める危険を冒して、カーテンの隙間を閉じることを決めた。毛布をはぎ取り、足を思い切りあげて、足を戻す勢いを使って上体を起こした。ベッドから立ち上がり、のろのろとカーテンの隙間の正面に向かった。
 カーテンの隙間からの光は冷えた身体には気持ちいい温かさだった。まだ部屋の空気で冷却されていない夏の光だ。足元には洗濯ばさみが転がっている。いつからかは覚えていないけれど、いつのまにか、カーテンの隙間は洗濯ばさみで閉じられていたことを私は思い出した。それが外れているからカーテンの隙間は閉じられることがなかったのだ。洗濯ばさみを拾って、カーテンの隙間を閉じようとしたとき、真っ白かったはずのカーテンの隙間から正面の公園の緑とそのうえに広がるペンキで塗ったみたいな青い空が見えた。私はその緑と青を直接見たいと思って、洗濯ばさみを片方のカーテンのはじに留めて、カーテンを開けた。光は部屋にあふれて、2対のベッドとその上のくちゃくちゃの毛布や両開きの白いクローゼットやリビングへと通じる引き戸やよじれたカーペットが敷かれた床を照らし出した。
 窓を開けると、生ぬるい風が部屋に流れ込む。風は、皮膚に張り付いた冷気の膜をあっという間に拭い去って、夏の湿気た熱気で身体を包み込む。そうして部屋は、窓を開けた瞬間から蝉の声が響き渡る夏の部屋になった。
 雲一つない濃い青空の下で、公園の木々はゆっさゆっさと風に揺られて、そのたびに、重ね塗りされた油絵のような緑が蠢いた。私は裸足のまま一歩、窓の外に足を踏み出した。太陽で熱せられたコンクリートのベランダの床は、小学校のプールの床を思い出させた。太陽の光は皮膚の内側に届こうとしているみたいに強烈で、わたしはもう一歩熱いコンクリートに足を踏み出し、全身を光で満たし、両手を手すりにおいて、往来を眺めた。





企画: 02. 開け放たれた部屋

 部屋とはある孤独な単位の象徴です。しかし、その部屋が開け放たれる。しかし、部屋の外に出る、というわけではない。孤独から解き放たれるわけではない。
 この展示ではそれぞれの部屋を孤島と見立てて、会場の各地に作品を点在させています。それぞれの孤島=部屋=作品が、他の島から分け隔てられている状態でありながら、同時に外を想像するとはどういうことなのか。
 孤島には、作者の私物がばらまかれています。それはいわば、孤島=部屋からの漂流物です。作品と一緒に、漂流物としての私物もまた読書のよすがにしていただけたらと思います。

企画作品一覧



修了展示 『Archipelago ~群島語~』 について

佐々木敦が主任講師を務める、ことばと出会い直すための講座:言語表現コース「ことばの学校」の第二期の修了展が開催された。展示されるものは、ことば。第二期修了生の有志が主催し、講座内で執筆された修了作品だけでなく、「Archipelago ~群島語~」というコンセプトで三種類の企画をもうけ、本展のための新作も展示された。2023 年8 月10 日と11 日に東京都三鷹のSCOOL で開催。

『Archipelago ~群島語~』展示作品はこちらからご覧ください。



「群島語」について

言葉の共同性をテーマとし、言語表現の新しい在り方を試みる文芸誌『群島語』
2023年11月に創刊号を発表。

今後の発売に関しては、X(Twitter)Instagram で更新していくので、よければ是非フォローお願いいたします!

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