役に立ちたい、は本能であり、原動力? と、思ったことから

高齢者が活発に動くには、自分は役だっているんだ、という気持ちになるようにすると良い。

そんな話を聴いたことがあります。

認知症になって、だんだん出来ることが少なくなって。だから、もうあの人はなにもできない、と、できることも奪い去るのではなく、できることを最大限活かして、それで自分は誰かの役にたっているんだ。そう思うことで、進行をある程度遅らせることが出来る。そんなことにも展開していくのがこのお話。
何かの冊子で、お茶しかいれられなくなったおばあちゃん。でも、だからこそ、お茶はおばあちゃんにまかせて「おばあちゃんのいれてくれるお茶おいしいね」とひと言があると、180度表情がかわってよくなる。そんな漫画があった記憶もあります。

ふーん。

そう思う程度でしょう。

でも、人? 人間? ホモサピエンスという動物は、何かの役に立っていると感じることが生きる原動力になっているのかな、と思うことに最近妙に遭遇します。

だから、まだできるのに危険だからとやめさせたり。いや、まわりからすると、「何かあったとき」の対処が大変(もっといえば面倒)だから、出来るうちにやめさせる。そんな行動選択が、どんどん人をダメにしていくのかな、とつくづく思うのです。

子どもが失敗するのは寛大にみて、遠くから自立を前提に見守ることが推奨されるし、そうしようとする人がたくさんいるのに(いや、本当にいるのかわからないけれど、そう感じます)、障がい者や高齢者、あらゆる社会活動の弱者が何かをするときに、なぜ、同じ目線をもてないのでしょう。これは、もう、何十年という単位で私は疑問です。

ちょっと脱線しましたが、役に立っていると感じることが原動力ではないか、役に立ちたいと思うのは、本能からの欲求ではないのか、というのが今回の主題。

大きな目標でみんなでとりくんで、なんとなく団体ができて、その中で、その取組みに自分がなにか役に立っているのだろうか。そう思うときは、すでに自信を失っている状態だと思います。
自分のできること、自分ならではのことで何か役立ちたい。でも、それが見つからないとき、それだと思って取り組んでいるのに評価されない。でも、その枠組みから出ていくことはしたくない。
そんなとき、何も役にたたないで、足かせになり、邪魔な状態で、自分はここにいていいのだろうか。などと思ってしまうものではないでしょうか。

趣味のサークルで、自分は役立つことができず足をひっぱるだけだ、と悩んだら、やめればいいのかもしれない。でも、その趣味がスキならばスキなほど、やめることは、自分を全否定するような気持ちとの葛藤がきっとあると思います。

会社ならどうだろう。私の能力では会社にやくだてない。給料をいただくだけ邪魔になっている。だから辞職する? といっても、今の世の中、転職を自由にできるのは、ごく一部の能力の高い人だけで、そんなふうに落ち込んでしまう人は、再就職先もみつからないかもしれないし。

これが、世の中だったら…それは、この世の中からいなくなった方が世の中のためなんだ、ということ? それって、自死を選択するということでしょうか。

今あげた3つは、レベル感の違いはあるけれど、いずれも、役立ちたいという本能の欲求が満たされない苦しみという点では同じではないかな。

最近の研究では、縄文時代初期にはすでに、自分では生活できず、他人の助け(今の言葉で言えば、介護とか介助)が不可欠な人も、それなりの期間生存することができていたことが判明しているそうです。
現代のように、より文化的とか、より楽に生きるためではなく、全員がもっと根源的な生きるために一所懸命だったこの時代に、他人のことをケアする仕組みや思想があった、というわけです。

1万年前くらいの日本人がやっていたことを犠牲にする(無視して取り扱わない)までして、人類って成長する必要はあるんですかね。
それは成長ではないな。単なるわがままだな。テクノロジーがわがままを言わせてくれるだけ。でも、それはきちんと環境破壊に伴う人類へ負担として跳ね返ってきているのかな。

まとまりも結論もない投稿にあえてしました。







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