すべてを受けいれるのはすべてをさらけ出すから。では、さらけだせないのは…

note に投稿するようになってから、このマガジンで、楽しみである歌関係の趣味から、自分の生き方を整理して考えてみたけれど。

最初に、そのために、自分の歌とのかかわりを整理してみようと、幼少時代からの沿革を綴ったわけです。

そんなことまでして整理するまでもなく、人前で歌う恐怖との戦い。そんな苦労するならば、歌なんかと縁をきればいいのに、縁をきると言う選択をしないできたからこそ、いろいろなことを考察するきっかけになり、だから、生き方の整理まで繋がっていた。

それは幼少から綴ってきて、まだ現在においついていませんが、だいぶ近くなったのでペースダウン。そして、他の話題もちらほら書きはじめた最近です。

その段階で、単なる楽しみである歌系の趣味から生き方をアプローチするだけでなく、むしろ、他の場面から生き方を考察すると、結果的に、歌系趣味との関わり方は、かがみのように現状を映し出している。いまさらながらその角度、アプローチにも気づきました。そんなわけで、今後そういう視点、角度からの記事もふえるかな、と思いますが、その序論、総論的なのが、今回です。

序論のそもそものお話

これまで綴ってきたとおり、お父さんにダメだしされないようにしたい。それが、人前で歌うことの恐怖の根源だったことは間違いないと思います。父とは27年も前に離れてくらすようになりましたが(そして20年くらい前に亡くなっている)、その後は、「お父さん」だけではなく、他人の評価というものに置き換わっている部分もあると思われます。

別に、「下手くそだな」と思われてもいいと思っています(プロじゃないんですから)。

しかし、歌にかぎらず、表現行為は、人そのものを表すことがあります。下手、というのは技術論だから表面的なものです(だから、どうでもいいと思える)が、向き合い方も歌には反映されます。理解や解釈も結果として感じ取られます。そうすると、知識とか思想も聞いてくださっている方にさらけだすことになります。実際私は、他の方の歌を聞くときには(歌に限らず表現行為にふれるとき)、この人はこんな生き方、人生を送ってきたんだ、と思いながら拝聴することが多いのですが、それって、ちょっと特殊ですかね…。

そこで、うまい下手はともかくとして、好きなものにとりくむ姿勢(という、性格、個性の根本的な部分)、ある詩にたいする理解や解釈からうきぼりになる思想、基本的な立ち位置。それにともなって、充分な知識をもっているのかどうか。そんなかなり根本的なことまでさらけ出すことになる…と思うのです。

そうすると、ここに、他人の評価で自分らしさをカモフラージュしたり改変したり、という作業が生じてきます。あるいは、それができないと思ったとき、表現することはとてつもなく怖いものになる(自分の場合)。

お父さんにダメだしされたくない、というのがきっかけだったかもしれませんが、歌のうまい下手よりもさらに自分の奥底に近い部分を察されたり、さらけ出すことに恐怖を覚えているのではないか、と最近思うようになったのです。

すべてを受け入れるとは、すべてをさらけ出すこと。さらけ出せないのは…

最近、こんな感じの話をするときに、私は、すべてを受け入れる、というキーワードをよく用います。

このキーワードを用いるということは、今、自分自身がそれをできていないから、それができるようになりたい。そういう思いからでもあります。

思わぬ災難、とんでもない重責がとつぜんふりかかってきた。そんなとき、そこから逃げる選択肢もあるし、多くは逃げた方が簡単だし、楽だと思います。でも、それを受け入れるだけの深さをもてるようになりたい。そんな願望が実はあったりします。

これは、受け入れる、という言葉ですから、拒絶しないというのが表面的な意味です。でも、実は、すべてを受け入れるためには、すべてをさらけ出せることは不可欠です。かくしたりごまかしたり事実をまげて防御していることがあれば、それに関連する事象、情報は、(少なくとも生のまま。解釈して改変しないで、そのまま)受け入れることができないからです。

そういえば、すべてを受け入れられるようになりたい、と思ったのは、水上勉さんの一休宗純の研究に関する本を読んだことがきっかけでした。一休宗純が琵琶湖で入水自殺をしたあとの生き方、存在って、まさに、さらけだしてすべてを受け入れるということではないでしょうか。

そうすると、なんとなく、すべてを受け入れるということをキーワードにしている、それは、受け入れることができていないからだ、ということは認識がありましたが、それはさらにいえば、すべてをさらけ出せていないから、それをのぞんでいる、それを目指している結果ではないか…。

表現としての歌

歌などの自己表現行為で、聞いてくださっている方に隠し事があって、メッセージはつたわるでしょうか。

自分がオープンになっていないのに、相手にオープンになってください、というのは、あまりにも自分勝手です。メッセージをうけとってほしいならば、完全にまずは自分がオープンにならないと。

でも、オープンにしていないどころか、オープンにするのが怖い。それは、どんな評価をされるかということに、いまもなおこだわってしまっているからかもしれない。

人前で歌う恐怖を克服出来たかも。でも、それはできていなかったことに気付かされました、というのは、先月、先々月あたりのこのマガジンの記事でした。では、それはなぜ? どうすれば克服できるの? と考えているときに、「そうだ、自分をまずはさらけ出していない、オープンにできていないからかもしれない」と思った訳です。

それは技術面でも。ご指導いただいている先生にはよく言われます。(外国語の場合)歌詞の意味は? 逐語訳での理解は? というのは技術論ですが、それをすぎたあとも、具体的にその場面になりきって。そして、なりきったとしたら、あなたならどう表現するの?? なんて感じでよく言われます。そう、まったく役の人のこと、他人のことで、ジブンゴトとして表現できていないわけです。

合唱の練習の孤独

先日は、合唱の練習がありました。20人少々の中、たまたま私のパートは私だけでした(社会人の合唱団では、仕事の都合で、団員の多くが遅刻するというのは、良くあることです)。

もう、人前で一人で歌うのが恐怖の私には、最低最悪の場面です。

こういうときは、周りの音、声に頼るしかない。とはいえもちろん、同じパートの人はいないですから、3度とか5度とかはなれた音を発している他のパートを聞いて、その中で(どれだけ、たとえば、「ド」といわれて、正確に「ソ」の音がだせるテクニックがあるのか、も疑問なのですが。だいたいはできると思います。でも、3度の和音を歌っているときなど、この和声の中だとやや低め、あるいは高め、みたいなレベルになると、私はお手上げのレベル。でも、混声合唱の一人パートは、そういうことと、音量のバランスも理解して現状を把握してださないと、うまくハモらないのが合唱…だから)自分の出すべき音を確信するしかない。そう思ったのだけと、さっぱりそれができない。
技術不足もあります。でも、ここでは、他人の評価、練習で変な音をだしてみんなに迷惑かけたくない。そういう気持ちからの消極性の方が大きな原因だったな、と感じて、ますます、この記事でここまでに綴ったことを考えてしまいました。

これを、孤独と感じることは、それ自体が、さらけ出していない。合唱団のみんなと一体化できていないからに他なりません。

これは、信頼していない、といえるかもしれません。信頼していないから、悪い評価をされたくない、迷惑をかけたくない、という気持ちが優先してしまう。
ご指導いただいている先生が、練習中にずいぶんフォローしてくださいました。でも、そんなフォローの言葉を先生が発する状況が申し訳ない。先生がそんなことを言わなくても、団員は理解している。そんな信頼がないから、悪循環に陥っているな…。みんなを、先生を信頼できれば自分が楽になれるのに。

受けいれられない、それはさらけ出せない。それは信頼していないからなのかな…。

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さて、今回は、序論です。

そんなきっかけで、このマガジンのテーマについて、また、別視点で思うことが強調されてきました。

序論だから結論はもちろん出ていませんが、今回はリアルタイムなことでもあるので、今後、変化を感じたら、綴っていきたいと思っています。

歌の問題ではなく、そもそも自分の生活、物の考え方、生き方の考察において、他人の評価を気にするばかりに消極的になりすぎていないか。そして、評価を気にしすぎているは、他人に対して信頼があまりにもないからでないか。

もともと自分の備忘録として綴り始めた note ですが、奇特にもいくつかを読んでくださった方は、こう思うことをどう思われますかね…。

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トップの画像は、みんなのフォトギャラリーから選択して使わせていただくことが多いですが、今回は転換点のひとつなので、目立たないように、画像なしの記事にしました。


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