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歌、いや、芸術は戦争をとめられるか

“歌系”の趣味から生き方を考える、なんてマガジンを設定している私なので、歌、が中心になりますが、これは、歌だけの問題ではない。
闘うこと以外のすべての人間の営みは、戦争を、争いをとめられるか、ということではないかと思うのです。

私世代では一定の方に賛同いただけるかなー(あるアニメお話)

歌が戦争をとめたアニメがありました。ラブソングをバックミュージックに、星間戦争が幕をとじる。
1980年代、テレビアニメで人気が出て、劇場版アニメにもなった、マクロスシリーズの最初の作品。

文化を守るためにと、敵の前線部隊のトップが地球側に助勢し、50万年前のラブソングを地球人が再現して歌い、それを背景に、ボスキャラを倒す。

機械的に説明すれば、そんなお話。

でも、ですね。
これは、歌が戦争を終わらせた、という見解もあるようですが、歌が戦意を喪失させた効果はあったかもしれませんが、結局は、敵の主力部隊を歌で味方につけただけで、ボスキャラはやっつけて(戦闘機の銃でめったうちにして)おわっている。だから、戦争が歌によっておわったわけではありません。せいぜい歌が戦局をかえただけだと思うのです。

軍歌はあっても、鎮静歌はあるのか

歌が人間の感情や意識に影響をあたえることは間違いありません。だから、軍歌というものもある。あれはやはり、意識を高揚させます。

(ちなみに私は、軍歌を現代でも歌うことを否定しません。きちんと作られて、歌われた時代背景を理解してならば、音楽そのものは、一流のそれだし、歴史のいちそくめん資料として、むしろ歌われ続けるべきものだと思っています。)

でも、そういう効果があるならば、反対に、戦意を失うような、心を静める歌があってもいいのに…と思いますが、軍歌は戦争している国が作らせるからできあがるわけで、その中で、戦意を静めるようなものは作るきっかけがなくなっているんでしょうね。

反戦ソングは嫌いです

実は、反戦にかぎらないのですが、特定のメッセージがあまりにも強い歌(にかぎらない。絵画で、文学でも)は、私はどうも苦手です。ベタベタの恋愛日記のように具体的にシーンが想起できるようなラブソングも苦手です。どちらかというと、10人が聞けば、10人がそれぞれのシーンをイメージする。そんな、解釈の自由の幅が広いものを私はこのむ傾向があるようです。ですから、戦争反対! と、ストレートに言うものは、歌でも文学でも、ちょっと拒絶反応が生まれるのはたしかなのです。

でも、そんな生易しい、曖昧なメッセージではなにもかえられない(いや、かえなくていいというのが本音なんですが)

継続は力であり、数であり、流れの中心である

メッセージ性が低くても、継続しているものはどうでしょう。
たとえば、歌ならば、継続しているということは、時間を超えて支持されているということです。
くりかえし演奏されることで、聞いたことがある人の数は積み重なっていきます。
そして、継続していることは、たとえそれがほそぼそでも、時代の潮流からはずれていない。それは、政治や世論の表舞台にたっていなくても、市民?国民? どう表現していいかわかりませんが、人びと中に、一定程度の支持があるからこそではないでしょうか。

第九と水のいのちと、原爆小景、そして、死んだ男の残したものは

継続して歌われる力強さ
3月の私の記事で、毎年年末に第九が歌われるならば、日本人が作曲した日本人の心を歌った作品が毎年歌われてもいいではないか。というコンセプトで、故髙田三郎作曲・故高野喜久雄作詞の混声合唱組曲「水のいのち」を毎年歌う団体を紹介し、私も10年ほど前からそこに参加していることを表明しました。

これも、すごく意義のあることだと私は思っています。

プロ(思想信条よりも生活が前提の人)が継続するということ
でも、もう一つ、とてつもなく迫力があるのが、故林光作曲の「原爆小景」は、プロの合唱団が、1980年から毎年同じ曲を歌い続けている、いうことを私は思い出します。
アマチュアは、自らの信条から一つを歌い続けることは、決心すればできることですが、それをプロがやるとなると、また、別次元のそれがあると私は思っています。

そして、これが演奏される演奏会のアンコールで歌われる、「死んだ男の残したものは」という故武満徹の楽曲。

原爆小景(は、4曲からなる組曲ですが、4曲目の作曲には数十年の歳月がかかっている)も、死んだ男の残したものは、も、反戦歌であることは、たぶん、間違いないでしょう(とくに、死んだ男の残したものは、は、「ベトナムの平和を願う市民の集会」のために作られた歌曲なので)。
でも、戦争反対という言葉は一言も出てこない。ただ、ある意味でたんたんと、戦争の、原爆の結果、事実をつづっている。それだけです。
私は、そこに逆に、強いメッセージを感じます。生半可に「戦争反対!!」なんて叫びまくるだけの詩や歌よりも、たんたんと、ありのままを詩にして、それに極端な装飾もなく、自然な旋律とハーモニーがついた作品。

だから、ある意味でインパクトはなく、即効性はないと思います。

そういうものを継続していくことが、結果的に、戦争をとめることにつながるのではないかな。

ウクライナ進行の中で、youtube での新録音

さきほど、プロの合唱団が毎年、と表現しましたが、そのプロの団体である東京混声合唱団が、ウクライナ進行をきっかけにあらためて収録した、死んだ男の残したものは、の動画を、Youtube で公開していました。

【No War】死んだ男の残したものは

とくに、Youtubeにアップしました、みたいな派手な宣伝をすることもなく。

それをたまたまみつけたとき、ありえない不幸は、すぐにとめたい。そして、当座、とめることは大事です。
でも、当座とめただけでは、くりかえしてしまう。くりかえさない行動は、地味なものを継続して、地道に続けていくことではないか。そんな風に思った次第です。

戦争をおさめる、防止することだけでなく。
コロナ禍からの回復も。社会問題の解決も、ここは同じではないでしょうか。

前半で参照した、マクロスの劇場版の最後には、反旗をひるがえして、地球側にまわった敵の前線部隊頭領は、「歌一つでさえこれだけのことができた」と語っています。マクロスにべったり、というつもりはありませんが、闘う以外の営みがあること。それをいかすこと。それを楽しむこと。それは、大切なことのように、この情勢の中では思わざるをえません。

そして、歌をふくめた文化には、戦争をすぐにとめる力ないと思います。でも、いつかとめる不可欠な要素ではあると思うのです。


冒頭画像は、みんなのフォトギャラリーで、「終戦」で検索した中で、イメージに近いものを使わせていただきました。提供してくださった方に感謝申し上げます。

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