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まとまらない。でも、考え方の変化を記録するために

公開する記事は、きちんと整理されたものであるべきだと思います。私は自分の備忘録として note を捉えていますが、それにしても、です。

でも、自分の備忘録としてならば、まとまっていなくても考え方のヒントとして記録しておくのも一つかな、と思いまして。その結果の投稿です。

きっかけとなった子ども家庭庁

最近のニュースには、こども家庭庁のこともひとつに挙げられると思います。

これに実は、ずっと違和感があります。もやもやがあるのが、私の現在です。

なぜ、子ども? というのがその一つの側面です。

子どもの人権宣言について、学生として学び、そののち、趣味としてやっている合唱を通して、「合唱組曲子どもの人権宣言」なんて歌を歌った経験もあり、その中で、一貫して思っていたことは、実は、「これって、子どもの問題ではない。社会的弱者一般の問題ではないか」ということでした。

わかりやすいから、合唱組曲子どもの人権宣言の歌詞を参考として出してみましょう。

「子どものくせにと言わないで僕らの声を聞いてください」
これ、「子ども」という言葉を、社会的弱者のカテゴリーに置き換えてみてください。高齢者、貧困層、障害者(女性や性的マイノリティもでしょう)。どれでもいいです。どれを入れても、当てはまらないでしょうか。

「僕らにできることはなんだろう。小さなわたしたちに」
も、僕とわたしを置き換えてください。子どもに限らない弱者普遍的な言葉と言えないでしょうか。

この曲では、できそうなことを提案し、それは大きなこと、それは大人の世界のこと。だからできません。しかし、僕たちの目の前の小さなことを積み重ねていけば、それは小さなことだけど、きっとつながっていくはず、と歌い上げて終わります。これも、社会的弱者。ブラック企業に勤めざるを得ない人、社会保障すらまともではない会社に居続ける人。そんなレベルの社会的弱者を主語に置き換えてもひとつも違和感がありません。
こんなふうに、弱者と分類されない人たちも、社会の仕組みを決める立場(政治家、政治家に影響力のある経済人)ではない人全てに、「子ども」という言葉は置き換えても、少しも違和感がないのが、現在の社会の仕組みではないかと思うのです。

福祉施策の優先順位

福祉施策の歴史を最近勉強することがありました。それによると、子どもの福祉は比較的福祉全体の中では初期に注目されます(太平洋戦争まででは、それは、戦力としての人材を生み出す装置としてだったようですが)。ちなみに高齢者福祉は反対に最後になってようやく注目されてくる傾向があるようです。そうだとすると、子ども家庭庁は、これから弱者保護を真剣に考えていく第一歩、なのかもしれません。

でも。

社会的強者は、できれば、自分達はずっと強者でい続けていたい、というのも本音としてはあるでしょう。与党が自分に不利になる選挙制度改革をしないのと同じです。そんな強者がとる施策としたら、弱者が一枚岩にならない施策。一枚岩になって、束になってかかってくると、流石に驚異になるかも知れないからです。でも、カテゴリーに分かれて、各カテゴリーがあれこれ主張しても、最後は強者の論理で押し切れるから、一つも怖くない。

勝者を支援して、将来の弱者への還元という妄想

資本主義社会で、まずは資本を保持しやすい人を成長させる。そうすると、弱者に分配することが期待できる。弱者に分配して、それぞれの成長を期待するよりも効率的。
という、アホらしい妄想は、そろそろ否定されていると信じています。

でも、経済施策も、福祉施策も、現代日本ってそんな感じではないですかね‥。強者は、勝者は、社会に還元してくれくという、根拠のない確信か、妄想にすぎない気がします。

なぜ妄想なのか

そうすると、弱者が一枚岩にならないためには、弱者同士が対立するような施策をして、お茶を濁しておくことが得策です。現実に、若者と高齢者の年金問題の対立なんて、その典型ではないかと私は考えています。

子ども家庭庁の施策をそんなふうに見るのは、流石に斜め過ぎですかね。

弱者同士、相互に対立するのではなく、一致団結して強者と対峙しないと、日本社会は強者と弱者の互換性はないままになるだろうな。と思うわけです。

私は、子ども持った経験もない。他方で、高齢者には接する機会が多いので、高齢者福祉にやや目線が向いています。でも、例えば高齢者の不安は、老後生活費が外せません。そうすると、高齢の貧困(最近は、老後破産なんて言葉も流行っていますが)の話につながりますが、これもよくよく考えてみると、高齢の貧困と若者の貧困は、土台はつながっています。しかしここで、高齢の貧困と若者の貧困を分けて考えると、細部では方向性が異なるので対立を産むことになります。そういうレイヤではなく、貧困問題全体で考えたらどうでしょう。細部ではなく、もっと根幹で考えよう、というだけの意味です。

そう考えないから、妄想に終わってしまっているのではないでしょうか。

と、いう具合に、弱者全体で考える視線、視点が必要ではないかな、と、最近切に思っていたりします(いつかつづく)


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冒頭のように、まとまらないままの記事作成でした。だからこんなもやもやが残る終わり方ですが、この視点、考えがアップデートしましたら、続きを綴る予定であることを表明して。

冒頭の画像は、みんなのフォトギャラリーで、「貧困」で検索してヒットした中から選ばせていただきました。このキーホードで、この画像って、皮肉がきいているなーとおもいませんか? 提供者様に感謝申し上げます。

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