好きな趣味が不甲斐なかったとき
大好きなことで、その成長を目指して、たとえば、習い事ならば練習したり修行をする。
そして、それを発揮したり披露する場面で、まったく目標には遠い結果となったとき。
もう、続けても仕方ないのかな。やめてしまえば楽なのかな。
そう思うときって、やはりどうしてもあると思います。
“歌系”の趣味から自分観察。自分観察って、ようするに、生き方を考察するということにつながるわけですが、先日はそんなことが2日続きました。
人生になにか問題がおきて、失敗して、深い深い苦しみ、悲しみの中にあるとき、中には自死を考える人もいると思います。そして、それを実行に移してしまうこともあるからこそ、こんなにも自殺する方の数がへらないのだと思います。
「あ…こんな結果では、やめてしまえば楽なのかな」、というのは、それと同じじゃない。
そう思って踏みとどまったのかもしれない。
ここでおわったら、ちょっと危険な記事ですね。
踏みとどまった中で、いろいろな人にお会いして、感想や意見をいただきました。
それ自体が、シアワセじゃない。感想や意見をいただけること自体が。
別にうまくいかなかったことを、たとえば、伸びしろがあるんだ、なんて、無理矢理ポジティブに考えるのは、私はもっと嫌いです。なんか、上辺だけで、まったく本当に問題を、課題を考えていない、表面的な、間に合わせな自己満足、自己肯定しているだけにしか思えない。
とくに9日の発表の場は、私のせいですべてを壊してしまった。終わったとき(いや、途中から)そう思うくらいの落ち込みでした。もう、次のこういう機会で、みんなに迷惑かけたくない。そうだとしたら、選択肢は2つで、次の機会までに迷惑をかけない程度になるか、やめるかの二者択一。ならば、前者は実現が難しそうだから、後者を選ぼう。いや、選ばなければいけない立場なんだ。そこまで直後は思いました。
そんな中…最初は、プラスの評価の声は、みんな右から左で通過していました。社交辞令で言っているだけ、なんて思う時期もありました。でも、4日たった今日、あらためて確認してみると、なんと、(全体はふがいないものだったかもしれないのに)良かったところを丁寧に見いだして伝えて下さったのだろう。そんなことに気がつける状況になってきました。
そもそも、悪い評価をしてくれるということは、一往は関心をもったり、注目してくれたってことじゃない。
8日は、お世話になっている音楽教室の発表会でした。
9日は、それとは別に所属している合唱団のコンクールの本番でした(結果はビリ)。
そんな2日をとおして、今、この瞬間まで、こんなことを考えていました。
結果が悪かったことを美化することはできない。むしろ、それを全部受け止めよう。きついけれど、そもそもさ、好きなんでしょ>自分。
自分が好きでやりたいことをやっているのだから、それを避けてどうするんだ。
まとまりませんが、自己激励の記事として…。お目々汚しの記事でした。
冒頭の写真は、みんなのフォトギャラリー検索して、(ちょっと書けない用語で)検索したなかで、一番のおきにいり使わていただきました。提供に感謝します。
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