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死生観の端緒と実務思考への転換~趣味から考える~

 “歌系の趣味”をなぜ続けているのか、と問われて、「生き方を考えるために続ける」と、答えたことをきっかけに(この記事で紹介)、“歌系の趣味”にまつわるエピソードから自分観察してみようというテーマの14回目です。今回も、もともとの幼少時代からの歌や音楽との接点を振り返って、どう生き方につながったか、と、沿革から考えることにして、(沿革の)前々回の続きとして、学生時代からその直後くらいのエピソードです。

「乾杯」のエピソードからわき出た目標?

 生き方を考える、なんて、大きなことをいっているのに、このころ定めた目標の一つに、すでに諦めたものがあります。
 そんな簡単に諦めちゃうんだ、>自分
 と、いう気持もあります。でも、諦めというか、別の形を目標にした方が、より、生き方を考えることにつながるのではないか、と思っています。

「乾杯」といっても、長渕剛・「乾杯」から
 それは、大学1年のときに、長渕剛さんの「乾杯」のエピソードを知ったときのエピソードです。

 「乾杯」は、ファンの間でなくとも、1980年バージョンと、1988年バージョンで好みがわかれるようです。私がこの曲をはじめて知ったのは、1987年。そして、これが、長渕さんが友人の結婚に際して製作したというエピソードを、ほぼ同時に知りました。

 これまで綴ってきた中でもふれたように、子供のときは、なんでも歌にしてしまう子供でした。そして、「幼少期」から、「生徒」「学生」という段階になっても、音書きのお遊びはときどきしていたし、それは学生時代までは続いていました。

生涯に5曲という壮大な計画?
 そんなことも背景にして、この長渕さんのエピソードを知ったときに、なぜか「生涯に5曲、真剣に作曲してみたいな」と思ったのです。“真剣に”というのは、鼻唄で歌って、それを採譜して…という気楽なものではなく、きちんと構成を考えて、いわば、机に向う場面も経て…というイメージです。

 ちなみに、5曲は、20代になったばかりの一人の青年が、たいていはとおるであろう、生涯のエピソードにちなんで。
①友人(あるいは大切な人の)結婚を祝う曲
②自分の結婚のとき
③自分の子供が生まれたとき
④大切な人(親、妻、あるいは他かもしれませんが)なくなったとき
⑤自分が死ぬとわかったときに、お葬式で流してもらうために。

 こういう趣味は、いい迷惑、という話しもあります。たしかに、この手の趣味は、思い入れが強すぎて、たとえば、①で曲をプレゼントされた友人は、対応にとまどうことは、想像に難くありません。だから、②と⑤以外は、自己満足でつくって、非公開でもいい。そんな風にも思っていました。

音楽との接点が一番なくなっていた20代前半に感じたこと

 学生時代にそんなことを思ったくせに、20代前半は、生活の変化もあって、一番音楽と距離がある時期でした。あいかわらず、歩きながら常に鼻唄を歌っているようなことはありましたが、それだけ。何回か前に綴ったとおり、谷山浩子さんファンとして、近くのコンサートに足を運んだり、最新アルバムをおっかけて買ったり、谷山ファミリーともいえる、ポプコン関係の他の歌手のコンサートにときどきいったり(その筆頭は相曽晴日さん。後に、“困ったときの相曽頼り”という「マイテクニック」が生まれる? きっかけになったといえます)と、いう程度はありましたが、30年ちかくたって振り返ると、それだけしかない時代です。

実務の接点がないときに、理論に注目
 ただ、この頃、上記の「5曲真剣につくってみたい」と思ったことは忘れておらず、独学で、音楽理論のお勉強はしていました。
 しかし、体系書みたいなものもいくつか取り組んでみましたが、どうしても乗り越えられない部分があり、結局、そこはわからないまま現在にいたっています。
 これをとおして痛感したのは、どんな「お勉強」も共通で、実務と理論はバランスよく学ばないと、本当の理解はできないのだということです。実務(演奏も、鑑賞も)がない私でしたから、独学で書籍だけで理解するのは、かなりハードルも高かったのだと思います。

今回のまとめ

 さて、だいぶ長くなってきたので、「生き方」にこのエピソードがどんな影響を与えたのかということと、「続き」の予告をして、いったんここで区切ります。
 そうそう、一つ明記していませんでした。諦めた目標というのは、この5曲作るぞ、という目標です。

5つをなぜ意識したのか
 価値観はかわるので、今はちがっています。
 それは、当時、結婚、子供をもつということ、(想定していたのは)親の死、そして、自分の死の4つ。そこに、友人の結婚式がはいっているのは、長渕さんのエピソードの影響だと思いますが、逆に、そのエピソードをきいて5つを考えるほど、大切に思っていた、あるいは、重視していたことだったのだと思います。

 当時、人間はなぜ生まれるのか。それは、動物である以上、種の保存に貢献することが大事だ、なんて思っていた時期でもありました。若者のちょっと極端な発想だったなー、と今は思います。しかし、ここから完全に断絶があって、今の価値観、死生観があるのではなく、ここを端緒にして、修正をかさねて継続の中で現在のそれにいたっているな、と思うところは多々あります。具体的には、人が生まれるということと、死ぬということについての、価値観・死生観が、ここで根付いたのかな、と思うのです。私の死生観の端緒なのです。

実務と理論~実務目線の芽生えと拡大
 後半にこの件にもふれましたが、私はどちらかというと、理論の美しさ、整合性を優先してものごとを考える傾向が強い学生だったと思います。
 大学は法学部でしたが、理論体系をどこまでも追求するような視点が学生時代には優先されていました。しかし、23才のときに出会った法社会学の分野の一冊の本(ちなみに、リンク先の本でした)を読んだころから、実務、実践の角度に多少目が向くようになり、だんだんと、実務から乖離した理論は不要だ、という意識が強くなるほどでした。
 それと同じ時期に、大学のお勉強の側のアプローチだけでなく、趣味・お遊びの側からのアプローチでも実感し、この視点の変化を決定づけたのではないかな、と、振り返ると思うところです。
 これは、現職を選択した理由にもなっており、あまり意識はしてこなかったものの、現在の自分に大きな影響を与えたそれだと振り返っています。

5つは1つだけ達成し、音書きの趣味はおわる
 このサブタイトルが、次回(沿革で綴る場合の)予告です。
 それはまた、別に、「生き方」に影響を与えたできごとでもあるので、ここ一端くぎらせていただきます。

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 冒頭の写真は、きっかけではあったけれど、記事全体の趣旨からは違うだろう、とは思いますが、みんなのフォトギャラリーで「乾杯」で検索して出てきたうち、イメージに近いものを使わせていただきました。ありがとうございます。

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