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【甲陽軍鑑】信虎追放事件年号の誤りに見るロマン

○武田信虎追放事件とは


武田信玄は父武田信虎を甲斐国外へ追放する事で家督相続をし、戦国大名として活躍することになります。信虎虎追放の時期については甲陽軍鑑が天文7年(1538年)としているのに対し、信憑性の高い資料として扱われる他の資料は天文10年(1541年)としています。

武田信虎の追放については、通説の前年に天文の飢饉(天文9年1540年)が起こり、飢饉に上手く対応出来なかったため追放に至った説や信虎自身の横暴さを原因とする説、外交姿勢に反対があった説、父子の不仲説(家督を弟信繁に譲る話が原因)などがあります。

○甲陽軍鑑と他資料の比較


【信虎追放を天文10年としている資料】

信虎追放を天文10年としている資料を紹介します。

王代記
「武田信虎六月十四日駿州へ御出。十七日巳刻晴信屋形へ御移。一国平均ニナル」

妙法寺記
「此年六月十四日ニ武田大夫殿様親ノ信虎ヲ駿河国ヘ押越申候。余リニ悪行ヲ被成ヲ候間、加様被食候。去程ニ地下侍出家男女共喜致満足候事無限」

高白斎記
「六月小丙辰十四日己巳信虎公甲府御立駿府へ御越、(※至今年御帰国候)於甲府十六日各存候」
※は後の書き込みか

勝山記
「武田大夫様、親ノ信虎ヲ駿河国ヘ押越申候、余リニ悪行ヲ被成候間、加様被食候、去程ニ地下、侍、出家、男女共喜致満足候事無限」

塩山向嶽禅庵小年代記
「信虎平生悪逆無道也、国中人民、牛馬畜類共愁悩、然駿州大守義元、娶信虎之女、依之辛丑六月中旬行駿府、晴信欲救万民愁、足軽出河内境、即位保国々、人民含快楽咲」

【信虎追放、甲陽軍鑑の記述】

甲陽軍鑑 品第三
「晴信公と御組くみありて信虎のぶとら公を駿河するがへよび御申なされ跡あとにて晴信公おほしめすまゝにむほんをなされすまし給ふこと偏ひとへに今川義元公の分別故如件くだの是とても又信玄公の御工夫不㆑浅あさからず候(中略) 右御父子ふしのこと信虎公四十五歳さいにて御牢人也信玄公十八歳の御時なり如件」

武田信玄 18歳は天文7年(1538年)であり他資料との相違が見られます。

○1538年と1541年の前後に何があったか


 信虎追放の前後は災害や疫病があり、常に飢饉が起こっている状態です。また、花倉の乱により今川義元が家督相続した時期でもあります。この時期の甲斐国内はボロボロの状態でした。甲陽軍鑑ではこの年代の国内貧困状態については語られず、晴信の初陣や合戦などを中心に語られています。 

 通説年表と甲陽軍鑑年表を比較して見ると通説には出てこない合戦もあるため、甲陽軍鑑の資料価値が低いと判断される一因となっています。

【通説年表】

天文5年(1536年)
晴信(信玄)元服・花倉の乱「高白斎記」
地震・大風・長雨・餓死の記述「妙法寺記」
前島一門切腹「妙法寺記」

天文6年(1537年)
餓死の記述「妙法寺記」
信虎の娘が今川義元に嫁ぐ「妙法寺記」
北条氏綱が河越城を取る「妙法寺記」

天文7年(1538年)
餓死の記述「妙法寺記」

天文8年(1539年)

天文9年(1540年)
疫病による死者多数「高白斎記」
今井信元を浦城で降伏させる「勝山記」
大雨による被害の記述・佐久郡侵攻1日に36の城を攻略。「妙法寺記」
諏訪頼重と信濃佐久郡侵攻「塩山向嶽庵小年代記」

天文10年(1541年)★信虎追放の年
餓死の記述・信虎、村上義清と諏訪頼重とともに海野棟綱を攻める。「高白斎記」

天文11年(1542年)
大風・餓死の記述・諏訪伊那侵攻(六月)「妙法寺記」
諏訪侵攻・諏訪頼重切腹(七月)「高白斎記」

【甲陽軍鑑年表】

天文5年(1536年)
晴信初陣
(海ノ口城攻略)

天文6年(1537年)

天文7年(1538年)
韮崎合戦 七月十九日
(諏訪頼重・小笠原長時による甲州侵攻)

天文8年(1539年)
信玄1年無行儀
村上義清・諏訪頼重による甲州侵攻

天文9年(1540年)
海尻合戦 正月末日癸亥
(村上義清による海尻城攻略を阻止)

小荒間合戦 ニ月十八日辛巳
(村上義清が信濃勢の清野・高梨・井上・隅田を先頭に甲州侵攻)

天文10年(1541年)

天文11年(1542年)
甲信境瀬沢合戦 三月九日
(村上義清・小笠原長時・諏訪頼重・木曽義康の信濃4大将との戦い)

○3年の違いに見るロマン

 私は歴史ファンなので学術的にどうとかそういう立場ではなく、純粋に甲陽軍鑑のファンとしてこの事実と向き合っています。ここからは持論になり根拠も何も無い妄想ロマンな考えになります。

 武田信玄が家督を得るのに通説と甲陽軍鑑では3年の差があります。甲陽軍鑑ではこの3年の間に通説には無い合戦を入れ込んでいます。

 甲陽軍鑑の成立は元和七年(1621)以前とされています。武田勝頼の代に戦国大名としての武田家が滅びたのが天正10年(1582年)です。武田家の遺臣は徳川家に使える人が多かったです。

1621年と言えば武田家にゆかりのある人たちで存命の人も居ます。自身の親から信虎、信玄についての口伝もあったはずで、子どもにもそれを伝えていてもおかしくない。まだ、色濃くとはなくとも武田家が人々の記憶の中に残っていた時代です。 

 そんな時代に甲州流兵法のテキストとして、登場した甲陽軍鑑です。大きく史実と違っている記載があるのなら、何かしらの横槍が入るはずです。史実と違う点がありながら、数多くの甲陽軍鑑が刷られていきます。

 少し不思議な気もします。

 編纂者の小幡景憲にも作為的に甲陽軍鑑をまとめ上げた様子もない。なのに通説には無いとされる合戦が混ざっている。

 甲陽軍鑑に記載された年号の誤りなどは高坂弾正も誤りあるかもしれないと甲陽軍鑑の中で語っているので大きな問題では無いと思っています。

 信虎追放の年号誤りについてもそれ自体は大した事では無いのかもしれません。

 それよりもその3年の間に通説には無い合戦が記載されています。武田信玄の信州侵攻を正当化させるためなどの説もありますがどうでしょう?

この3年間に記載された合戦の意味を探ることもまた甲陽軍鑑の持つ魅力でありロマンですね!


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